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〈本の紹介〉民衆暴力―一揆・暴動・虐殺の日本近代/藤野裕子 著

2020年11月07日 07:24 主要ニュース 文化・歴史

自発的行為のはじまりにあるもの

中央公論新社。本体820円+税。03-5299-1730。

暴力をふるうに相応の「論理」とは何か―。近代国家が、暴力の正当性の独占を図る裏で並存した民衆の解放願望とエネルギー。そして、それらが暴力となり発生した数々の事件たち。

本書は、民衆という語を国家・公権力に対する「国家を構成する人びと」と定義したうえで、日本近代史における4つの事件から民衆が主体となった暴力の構造について考察した。

著者は民衆が潜在的に持つ暴力性を指摘したうえで、その当時を生きた人々の内面的な衝動や時代背景、習慣や文化が契機となり「一人の人間や社会集団のなかに矛盾なく存在」した「権力に反発する意識と多民族などを差別する意識」が暴力へと発展するメカニズムについて指摘する。

特に、序章まで含めると全6章中の2章を割いた関東大震災時の朝鮮人虐殺に関する叙述は、これまで積み重ねられてきた多くの先行研究を「民衆暴力」という視点で再考することで、「朝鮮人が暴動を起こした」などの流言や誤情報を拡散した公権力の罪はもちろんだが、「想像上の『テロリスト』から日本を守ろうとして、生身の朝鮮人を殺害していった」(4章「関東大震災時の朝鮮人虐殺」)民衆による加害の実態に迫っている。

しかし本書を読みながら改めて感じるのは、民衆の自発的な行為のはじまりには国家が存在し、国家による罪を問わない限り、関東大震災時のような流言と虐殺の連鎖は繰り返されるということだ。

「軍隊、警察に代表されるように、国家によって暴力装置(暴力を発動する機関)が組織化・制度化され、その他の主体が行使する暴力は国家が承認しない限り、正当性がないとみなされる。…いかに活動に多様性があるにせよ、軍隊・警察などによる暴力が唯一正当化された暴力である点に変わりはない」(序章「近世日本の民衆暴力」より)

そもそも現代社会において、公権力による暴力装置が「唯一正当化された暴力」であるという認識は希薄なばかりか、著者の指摘するように「『暴力はいけない』という倫理観が先行する」あまり、暴力そのものの本質を問う思考は遮断された人々が多いのではないだろうか。本書は、一見、現代には起こりそうもない暴力の形が、いつ何時でも形成されうることを伝え、現代人が持つ感覚の危うさに再考を促している。

(韓賢珠)

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