“在日の生き様、歴史の痛みがここにある”/変わりゆく風景、ウトロ同胞たちの思い
2018年01月23日 15:19 主要ニュース家庭を顧みず、同胞を思い奔走した活動家の姿
京都府宇治市伊勢田町ウトロ51番地。近鉄伊勢田駅を下車し、道沿いに10分ほど歩くと、風景が一変する。トタン屋根にベニヤ板のバラック、色あせた立て看板。そこには、戦後の混乱を生き抜いた同胞たちの生きざまが色濃く残っている。長年の土地問題が決着し、現在、市営住宅への入居をはじめとした再開発が始まったウトロ。変わりゆく風景の中、この地に根を張りつづけた同胞たちは、今、何を思うのか。
皆で守り抜いたウトロ
「ウトロ守らなと必死だった。私らの、ほんまのふるさとやから」。当時の心境は?「いつも不安やん。負けたら追い出されるから。毎日、すごくびくびくしてたんやで」――。

ウトロの入り口に残る立て看板
第2次世界大戦中、国策で進められた京都飛行場建設には、多くの朝鮮人が集められた。解放後の混乱の中、労働者と家族らは工事用飯場に定着し、朝鮮人集落を形成していく。植民地支配により、国を奪われ、戦後補償もない中で、貧しさと差別にあえいだ日々。やっとの思いで築いた安住の地に、突如届いたのは、地主を名乗る不動産会社からの「立ち退き」通告、そして、「住民らに土地所有権はなく不法に占有している」と記された京都地裁からの訴状だった。
89年3月、京都地裁で行われた「立ち退き訴訟」第1回口頭弁論。
“この訴訟は、飛行場建設の労力不足を補うために半強制的に朝鮮人を雇ったことなどの歴史的経緯や、戦後処理が果たされないまま今日に至った実情を無視し、住民の居住権、生活権をはく奪するものだ”
この「被告」側冒頭意見陳述は、問題の本質を端的に表している。ある日、いきなり裁判所によばれ「被告」とされた住民の当惑、感じた不条理さ、苦労を重ね築いたコミュニティを再度奪われるという危機感に、住民たちは怒り、結束した。
ウトロの地に生きる在日朝鮮人としての正当性をめぐる長い長い闘いのはじまりだった。

町内会長をつとめた夫・金教一さんとの思いでを語る韓金鳳さん
――冒頭の発言は、現在もウトロに住み続ける韓金鳳さん(79)。ウトロ町内会長をつとめた夫、故・金教一さんを支えるかたわら、20年に渡り、女性同盟の分会長を務め、ウトロの闘いの歴史を刻んでいった。
「ウトロの裁判には、毎回通った。一回も欠かしたことはない。皆で観光バスに乗り込んで、東京にある日産車体(ウトロの土地所有者)の本社も訪ねた。ガードマンがずらりと並ぶ前で、チョゴリ着て、チャンゴ叩いて抗議した」
2000年11月、最高裁は上告を棄却。「不法占拠」とする原告(西日本殖産)の主張を追認し、住民に立ち退きを命じた。
闘いは続いた。支援の輪は大きな広がりを見せ、日本市民や各地の同胞、南の市民たちからカンパが寄せられた。南では、ウトロを支援する30億ウォンの予算が通過、また、総聯京都府本部の呼びかけにより全国の総聯組織から約1200万のカンパが寄せられた。
「全国から、世界からも応援があったから今日がある。みんなでウトロを守った」
アルバムをめくる手が止まり、ふっと韓さんの表情がゆるむ。「この笑顔ええやん」。指さす先には、カメラに向かってほほ笑む、夫・金教一さんの写真。「真面目一筋の人で、えらい人やった。町内会長として、行政とのやり取りも表に立って行っていたのを覚えている。アボジ(夫)が、ウトロの皆のために頑張っていたから、私は後ろをずっとついていっただけ。縁の下の力持ちよ」。夫婦であり、ともにウトロに生きる同志であった夫の姿を懐かしむ。
そんな喜びも悲しみも詰まったウトロの風景は、再開発が進むにつれ、その姿を変えていく。20年の完成までには、韓さんの住む家も取り壊される。
「最初は潰してほしくないと泣いていたけど、変わっていかなあかんな。心は決めた」
でも――。「もっと(解決が)10年も早ければ…。運動の先頭に立って、頑張った人たち、いっぱい居てたのに、みんな亡くなってんで」
あまりにも遅すぎた決着。手放しでは喜べない、複雑な気持ちもそこにはあった。
一世、ウトロを語り継ぐ
市営住宅への入居がはじまった16日、前日の寒さとは一転、暖かな日差しが降りそそぐ昼下がりのウトロ。南山城支部会館の玄関の前には、補助用の押し車を押し歩く、姜景南ハルモニの姿があった。

1世の姜景南ハルモニ。ウトロの歴史を語り継ぐ。
「あんたら、なにしに来てんねや。その古い空家を潰しに来るんなら、私をひき殺してから潰せ」――当時、立ち退きをすすめようとする解体屋のトラックの前に身を投げ出し、ハルモニが叫んだ言葉だ。
8歳の時に、慶尚南道から渡日し、御年93歳。民謡が好きで、たばこをぷかぷかと吸う、元気な1世の姿は、今も健在だ。ウトロの「語り部」に一目会おうと、日本からも、南からもウトロを訪ねる人々が後を絶たない。

姜景南ハルモニと息子の金成根さん、昼下がり、自宅の玄関前で。
「オモニ、もう最後やし、家の前で写真撮ろうか」と息子の金成根さん(68)。ウトロで生まれ育った生粋の「ウトロ1世」だ。今回、親子で、新住居へと移り住む。
「アボジ、オモニたちはたくさん苦労しただろうけど、子どもだった自分は楽しい思い出ばかりが浮かぶ」。東と西の飯場同士のチャンバラごっこ、警察の強制捜査を受け、オモニたちが隠したタッペギ(どぶろく)で真っ白に染まった下水…。「皆が同じように貧しくて、だから助け合った。当時は、鍵を閉める家なんて一軒もなかったよ」。言葉の端々に、去り行くウトロへの愛着が滲む。
「恥ずかしい街やけど、ここがあったから、生きていけた。どこに行っても、帰ってくる場所は、一緒。ウトロなんよ」
寄り添った活動家たち
戦後の貧しい生活、数十年にわたる土地問題を乗り越え、この地にとどまり続けた同胞たち。その団結の中心に、そして同胞たちの暮らしの一番近いところには、今も昔も総聯の活動家たちの姿がある。
同胞たちから「ソンセンニム」と親しまれた南山城支部初代委員長の故・鄭相奭さん。息子の鄭佑炅さん(76)は、父の姿を次のように想起する。
「頭のいい人で、日本に渡ってくる前は、師範学校の先生をやっていた。同胞たちのよろずや相談を引き受けていたよ。字が上手だったから、結婚式や葬式には、字を書いたりしていたな」
自宅は、同胞たちの「駆け込み寺」。客が途絶えることはなく、子どもたちは「しょうがないな」と隠れて寝ていたと苦笑。「家族を顧みず、みんなのために奔走していた『背中』」こそが、鄭さんの記憶の中の「父の姿」だった。
ウトロでは、2002年に高齢者福祉施設「エルファーハナマダン南京都」を設立。南山城支部では、同胞たちの生活を細やかにサポートしてきた。

新たに建設された市営住宅第1期棟。周りには、昔の家々が残っている。
07年12月、土地問題の解決後、府立城南勤労者福祉会館で行われた報告集会には、ウトロ住民らが引退した総聯活動家を招き、これまでの感謝の思いを込め金一封を贈った。この心温まるエピソードも、当時の活動家に寄せる住民たちの信頼を表している。
「志を持った先輩たちが同胞の生活を支え、見守ってきた。ウトロの歩みを振り返り、組織の存在がいかに重要なものかを感じている」。今年、南山城支部に勤め、8年目を迎える金秀煥委員長(41)はこう語る。
「同胞たちが密集して暮らす地域だからこそ、どのような仕事でも誠意を尽くす。同胞たちはその姿をきっと見てくれている」。引き継ぎの際、前任の委員長から受けたアドバイスだった。それからの仕事ぶりは、息子や孫ほど年の離れた金委員長を「위원장!(委員長)」と親しみを込めて呼ぶ同胞たちの姿が体現している。
金委員長にとってウトロとは――。「同胞たちの人生、歴史の痛みが集約された場所。在日同胞の生きざまそのものに価値があり、それは大きな力だと知った。この地にとどまり続けた同胞たちの歴史を、次世代に、そして世界へと発信する使命と責任を感じている」。
再開発により、在日同胞の歴史を物語るウトロの姿が失われる中、住民と支援者たちは、ウトロの歴史を伝える記念館の開設を目指す。日本の戦争責任、植民地支配の根本を問う営みは、これからも姿形を変え、続いていく。
(金宥羅)
ウトロ年表
- 1940年:京都飛行場建設に着工
- 43年ごろ:ウトロ朝鮮人飯場の開設
- 45年:日本の敗戦により飛行場建設が中止
- 87年:戦後土地を所有してきた日産車体が西日本殖産へと土地を売却
- 89年:土地所有企業が明け渡しを求め京都地裁に提訴
- 98年:京都地裁で住民側が敗訴
- 2000年:最高裁で住民側の敗訴が確定
- 01年:国連・社会権規約委員会が総括所見。ウトロの立ち退きに懸念を表明
- 07年:国、府、宇治市が住環境改善検討協議会を設立
- 10~11年:2財団が西日本殖産と土地売買契約を締結
- 14年:国、府、市が基本構想を策定
- 16年:市営住宅建設に着工