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ニョメン・オーガナイジング⑩歴史を「引き受ける」の処方箋/文・イラスト=張歩里

2025年04月06日 09:00 ニョメン・オーガナイジング

極めて敏感な感受性

昨年、女性同盟分会の30代の若手で、ニョメン顧問をお呼びして、「関東大震災朝鮮人虐殺」に関するお話を聞く場を設けた。

私の居住地域のオルシンたちには、昔から親や近隣住人に1923年の関東大震災時に起こった朝鮮人虐殺の記憶を、伝え聞いた方々が少なくない。

知ってはいたもののやはり衝撃的だったのは、朝鮮人を襲った民衆が、地域に生活基盤を築いていた「普通の地元住民」であったという点だ。その地域では暴行参加者の家は繁栄する傍ら、近隣住民の中では代々後ろ指をさされてきたそうだが、今やそれを語り継ぐ日本人はいない。しかし虐殺の生々しい話を伝え聞いたオルシンは、近くの神社で地元消防団が祭りや防災を仕切る姿を見るたび、あの「自警団」の姿と重なり、とても恐ろしくなるとおっしゃった。日本に住むということはこういうことなのだ…。1923年の暴行参加者の多くは、地縁あってこその生業(ルビ:なりわい)をしていた米屋、八百屋、魚屋といった商人や大工、鳶、左官などの職人たちだった。生産や販売、消費を通じて支え合い、祭りや防災、防犯といった仕事も分かち合っている。それに自警団は「ヨソモノ」から地域を守るための組織でもあった。

半纏を着て「わっしょいわっしょい」と神輿を担ぐ様子を、以前は日本の夏の風物詩だと呑気に眺めていた。あたり一面に男たちの威勢の良いかけ声が溢れ、見物客で埋め尽くされるなか、息苦しい思いをしていた同胞がいたなんて想像すらできなかった。

オルシンは歴史の眼差しから、群衆心理の暴走を今もなお継続的に案じておられた。当初はニョメン顧問の貴重なお話を聞いて、若い世代が歴史の真実と、犠牲になられた同胞のことをしっかり「記憶に留める」というのがこの企画の趣旨であったが、私にとっては現在も地続きに繋がる問題への処方箋をいただいたようであった。歴史を「引き受ける」ためには極めて敏感な感受性が必要だ、と。自分自身に忘却を禁ずるためにも。

「自然化」され蝕まれる

私たち30代が思春期を過ごした頃は、特定の在日朝鮮人に対する物理的暴力や威嚇が吹き荒れ、「事件化」されていた時期であった。明らかにメディアはそうした暴力をそそのかしていた。しかし今は、どうだろう。街中にチマ・チョゴリ制服がないのも「当たり前」だし、朝高生や朝大生たちが飛行機に乗って祖国訪問するのが「当たり前」となっている。

現在進行形で朝鮮への「制裁」、在日朝鮮人に対する差別は続いているのに、いつの間にかそれらが「自然化」されてしまっている。最初からそれがないもののように風景として溶け込んでいるこの日常に、不憫さすら感じなくなっていいのだろうか。いや、差別が日常に組み込まれると、それが「あたり前」という感覚に陥っていくのであろう。

しかし考えてもみれば、私が20代の頃から、まわりでは頻繁に「制裁」による生活への困難が生じていた。朝鮮にいる親族との面会や連絡の道が絶たれた同胞オルシンたちの声、相続など生活的な手続きの困難化を訴える親戚たち声など、その理不尽を訴える「多くの声」がどんどん「繰り返されるあたり前」になってしまい、私自身の朝鮮人としての権利意識が蝕まれていたのだ。

こうやって20代から30代までを振り返ると、「排除される側」であることに慣れてしまったことに気づく。20代の頃、耳をかすめていった多くの「声たち」、あたり前に抱くべきであった「怒り」「憤り」という感情が、ふつふつ蘇る。

 

「根」付くこと

私は短いニョメン活動で、真理を求めるということが不断の生の努力であることを教わった。目前の必要のみに立脚している限り、朝鮮人としての生は改善されない。ましてずるずると成り行きに任せたら、何もかも忘れてしまうこともようやく解った。そう、「こと」として抽象化してはならないのだ。

ミクロな部分を知らないと正しく想像できない。だから「根」付いて考え、感じ、共に活動する「経験」が、必要だと思う。同胞社会の根源をなす「根」を見出し守ろうとする精神、そして不条理な現実を捉える目と感性を体得することは、これからニョメン活動を継続的に行っていくための「力」になるはずだ。それは同時に「根こそぎ」奪おうとするものへの抗いでもあり、「怒り」を引継ぐことにもなる。

30代を生きる今、目まぐるしい日常にいても、いつでも拳を突き上げられるよう、ぎゅっと手に力を込めるのだ。

(関東地方女性同盟員)

※オーガナイジングとは、仲間を集め、物語を語り、多くの人々が共に行動することで社会に変化を起こすこと。新時代の女性同盟の活動内容と方式を読者と共に模索します。

 

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