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〈特集・ウリハッキョの今〉茨城初中高/不屈の闘志と団結力で守り続けた民族教育

2023年12月26日 09:00 民族教育

現在の校舎(92年落成)

学校創立以降、5223人の卒業生を輩出してきた茨城初中高。多くの試練と困難が押し寄せても、必ず乗り越えられるという不屈の信念は今も脈々と受け継がれている。同胞社会と子どもたちの未来を思う精神は、児童、生徒たちの前途を明るく照らし続けている。

自主学校の建設へ

茨城県には植民地時代、日立鉱山、常磐炭鉱、竜ヶ崎の羽田精機工場、鷹峰マンガン鉱山などに多くの朝鮮人が強制連行され、過酷な労働を強いられた。1945年初めには推定1万以上の同胞が県内に住んでいたとされる。

46年2月の朝連関本初等学院、谷田部初等学院の開校を皮切りに、47年までに22校の朝連学院が県内各所で開校した。48年4月には土浦の学院を本校とする茨城朝鮮中央小学校が設立された。

49年11月、「朝鮮人学校閉鎖令」の発令(同年10月)によって、県内にあった7つの朝鮮学校が閉鎖を余儀なくされた。しかし、同胞らは閉鎖の同日に「民族教育対策委員会」を結成し、「閉鎖令」撤回を求める運動を展開。その後、県内各所の日本の公立学校内で民族学級を運営し、民族教育の火を灯し続けた。

53年、同胞らは民族教育のさらなる発展を目指し、自主的な学校建設に乗り出した。「茨城朝鮮中学校建設委員会」を発足させ、85万円の予算で閉鎖された土浦校舎の補修事業に着手。同胞たちは「私たちの学校を私たちの手で運営しよう」をスローガンに、1日5円の貯蓄運動を展開するなど、努力を尽くした。結果、同年4月15日、現在の茨城初中高の前身となる茨城朝鮮中学校が創立。142坪、7つの教室と職員室が設けられた校舎に、教員7人、生徒17人で開校の鐘の音を高らかに鳴り響かせた。

55年4月には高級部を併設し、校名を茨城朝鮮中高級学校に改称。同年12月には県からの学校設置認可を取得した。

家宅捜索、火災を乗り越え

水戸に移転後初めて行われた入学式(59年)

同胞子女たちにより良い学びと生活の場を提供するため、同胞たちは57年から水戸市への移転事業を推し進めた。大衆的な基金運動を展開した末、59年4月、計画より2年短縮して学校を現在地の水戸市千波町に移転。木造の近代的な校舎と共に寄宿舎を落成した。生徒数も次第に増え、順風満帆なスタートを切ったかと思われた矢先、同校に試練と難局が立ちはだかった。

62年2月1日、機動隊含む200人の警察が出入国管理法、外国人登録法違反を口実に、突如学校に押し寄せ家宅捜索を行ったのだ。総聯本部や日朝協会の連日の抗議に、その後県警は「今事件が

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