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追悼する会メンバーらが講演/浮島丸殉難78周年

2023年08月31日 08:30 歴史

未解決の歴史、幅広い周知を

8月24日、京都府舞鶴市「殉難の碑公園」で行われた浮島丸殉難78周年追悼集会に続き、総聯京都府本部の主催の下、浮島丸殉難者を追悼する会(追悼する会)の品田茂会長と橋本栄治事務局長による現地案内と講演があり、同胞、学生、日本市民ら約40人が参加した。講演では、未だ解明されていない浮島丸殉難と追悼する会の活動について解説された。

舞鶴市内の施設で講演が行われた

歴史と平和を語る

1945年8月22日、海軍大湊警備府の指示により、青森県内の朝鮮人労働者とその家族ら数千人を乗せた浮島丸は8月22日午後10時に大湊港を出港し、朝鮮・釜山港をめざした。船内はようやく故郷に帰れる朝鮮人たちの歓喜であふれていた。しかし、浮島丸は日本海の沿岸を進み、24日午後5時に舞鶴湾に入り、その10分後に「殉難の碑公園」の目の前の海で突然爆沈した。

品田会長は「日本政府は549人が亡くなったとしているが、少なくとも3千人ではないかという見方もある。周辺の日本人たちが救助にあたったが多くの人が亡くなった」としながら、「爆発原因や乗客名簿もはっきりしていないが、これまで当時の関係者らから意図的な爆発であったことや、目的地が釜山ではなく舞鶴だったことなどの証言も語られている」と述べた。

講演会で発言する品田茂会長(右)と橋本栄治事務局長

浮島丸は、殉難後9年間にわたり海に沈んでいた。1954年に引き揚げられた理由はスクラップなどの金銭目的だったという。一方で、犠牲者の遺骨は東京都目黒区の祐天寺に280人分が安置されており、高齢になった遺族は早期返還を求めている。

品田会長は「過去の歴史を忘れず平和を語っていくことが重要だ」としながら、「日本が軍事費を倍増させ、米韓合同軍事演習が頻繁に行われる中で、われわれが継続して追悼集会を行い、平和を求めていく意義は大きい」と強調した。

事件を伝える責務

橋本事務局長は、追悼する会が立ち上がった経緯と現在の活動について話した。

橋本事務局長は、浮島丸殉難後、この事件はメディアで一切報道されなかったと話す。事件について知っていたのは舞鶴市の住民の中でも、殉難現場付近の住民だけだったという。

「殉難の碑公園」にある慰霊碑

橋本事務局長は「追悼する会の初代会長である野田幹夫先生が1960年代に浮島丸爆沈を知り、犠牲となった朝鮮人たちの尊い命を追悼する集会を継続して行わなければならないという思いで活動が始まった」としながら、「当時、日本社会でこの事件が忘れ去られようとしているなかで、これを象徴するモニュメントを作ろうと1975年に慰霊碑建立のための第1回実行委員会が行われた」と当時を振り返った。

慰霊碑は舞鶴市の教職員グループが中心となり制作した。橋本事務局長もそのメンバーの一人だ。慰霊碑の中央に立って幼い子を抱えているチマチョゴリをまとった人物は、当時、舞鶴市にあった舞鶴朝鮮初中級学校の先生にチマチョゴリを着てもらい、それをモチーフにしたという。

1978年8月24日に「浮島丸殉難者追悼の碑」の除幕式が行われ、その後追悼集会は毎年開かれるようになった。追悼する会では、追悼集会のほかにも紙芝居を制作し、この事件を日本市民たちに知らせているほか、昨年には遺骨返還を求め厚生労働大臣に要請書を提出した。

橋本事務局長は、今後も自らの責務として浮島丸爆沈を多くの人に伝えなければならないと思いを語る。

「浮島丸は引き揚げられたが、望郷の念を抱きながら海に沈み引き揚げられなかった犠牲者たちがいるということを忘れてはならない。2年後には浮島丸殉難80周年の節目を迎える。いろいろな形でこの事件を後世に伝えていきたい」(橋本事務局長)

(安鈴姫)

 

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