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侵略戦争の裏面にある被害/強制徴用裁判関連集会の講演で

2022年08月04日 08:00 歴史

突きつけられた課題

「強制動員問題解決と過去清算のための共同行動」(以下「共同行動」)が主催した7月30日の集会。当日は、1990年代に本格化した在外被爆者裁判と関連し、契機となった「金順吉裁判」について、被爆2世で40年あまり支援活動を続けてきた平野伸人さんが講演した。

「強制動員問題解決と過去清算のための共同行動」が主催した7月30日の集会では、平野伸人さんが講演した

講演冒頭、平野さんは、数枚の写真をスクリーンに映した。それは、原爆投下から3日が経った長崎市内の原爆中心地、被爆した子どもたちを写した「赤い背中の少年」(撮影=谷口稜曄)と「黒こげとなった少年」(撮影=山端庸介)、そして長崎平和公園内にある「原爆落下中心地碑」の写真だ。

被害の実態と戦後に建てられた碑の写真をそれぞれ見せながら、かれが真っ先に語ったのは、日本の侵略戦争の裏面にある戦争被害がいかに記憶されてきたのか、その問題点であった。

平野さんは、「原爆落下中心地碑」の写真をみせながら「ここは原爆投下中心地だが、そうは言わない。まるでただ物が落ちたかのように、原爆『落下』中心地としている。こういう文字一つひとつに、戦後の日米関係があらわれている」と指摘した。

長崎平和公園内にある「原爆落下中心地碑」(市公式観光サイトHPより)

講演では、現在103歳になる母親をはじめ、姉、祖母の計3人の被爆者家族をもつ平野さんの個人史や、いまも家族を苦しめる被爆の後遺症について、また1985年の被爆40年に際し、被爆2世らによる初の全国組織「全国被爆二世教職員の会」を結成した経緯などについて言及があった。

とりわけ平野さんは、被爆の後遺症により変形した母親の足の爪と、ただれた脚の写真を見せながら、被爆者問題が、決して過去の話ではないことを可視化させた。

被爆者である平野さんの母は、被爆の後遺症で足の爪が変形している

被爆の後遺症でみられる脚の炎症

「原爆の爪といって、切っても切ってもこうして曲がって生えてくる。脚も、幸い皮膚がんにはならなかったが、いまでも炎症がずっと続いて治らない。母ほどひどくないが、私の脚にも、同じ場所に赤い炎症がある」(平野さん)

1946年生まれの平野さんをはじめ、当時かれの同級生たちは、体内被曝した被爆者以外は皆被爆2世だったという。そのようななかで63年には、幼馴染の死にも直面した。

平野さんは「被爆者に被爆50年はない、被爆体験の継承を真剣に考えなければならない」という課題を突き付けられたこれらの経験が、被爆2世による運動を本格化させていったと説明した。

 

反戦を語る

講演では、現在の在外被爆者支援につながる南朝鮮の被爆者との出会いについても発言があった。

団体発足から2年後の1987年、平野さんは、南朝鮮に存命する被爆者や被爆2世らとの交流を目的に現地を訪問。200人程の関係者があつまった場で「重要なことに気づかされた」という。

報告する平野伸人さん

「その頃の私は、韓国に被爆者がいることについてちゃんと知らなくて、認識も希薄だった。『私たちは同じ核の被害者』だと『核の被害者をなくすために共に運動しよう』と呼びかけたら、ものすごい反発を受けた」(平野さん)

当時、交流の場に参加した南の被爆者たちは、平野さんに対し「私たちはそうは思わない。日本の植民地支配があり、徴用され、強制動員され、そのあげく原爆に遭った。それがどうして一緒に運動をしようと言えるのか」などと疑問や非難の声を次々とぶつけた。

平野さんは、この経験が「在外被爆者支援運動の原点」だと述べたうえで、自身らの活動に、当時、日本の戦争責任についての認識が不足していることを感じたと明らかにした。

87年の南訪問時、「韓国原爆被害者協会」には約2500人の被爆者が登録されており、そのうち長崎での被爆者は79人のみだった。しかし原爆当時、長崎市内には約3万人の朝鮮人がおり、うち2万人の被爆者および約1万人の爆死者がいたとする研究統計が存在した。

そのような統計との差を疑問に思った平野さんら長崎の被爆2世たちは、その後、繰り返し訪問調査を行った。結果、長崎における朝鮮人被爆者の数は、79人から約200人へと膨れ上がり、長崎の被爆者は、特に1944年頃から三菱長崎造船所などへ徴用された朝鮮人が多いなど、新たな事実も判明した。

原爆当時、長崎市内には約3万人の朝鮮人がおり、うち2万人の被爆者および約1万人の爆死者がいたとされている。

長崎での被爆者である金順吉さんとの出会いは、この調査結果をもとに展開した南朝鮮での支援活動の過程で突如として訪れた。その際、平野さんは、強制徴用時に、金さんが隠れて記し続けた日記を手渡された。この日記が司法闘争を展開するうえでの要となり、92年から「金順吉裁判」が始まったのだった。

講演の終盤、平野さんは、金順吉裁判について「根本的な解決を図るためには、事実を明らかにするしかないと始まった裁判」だと述べたうえで、「金さんの日記はわたしたちに『物言わぬ歴史の真実』を語りかけている」とその意義を語った。さらに、「反核を語る前に反戦を語らなければならない、これが私の平和運動の原点だ」と付け加えた。

(韓賢珠)

金順吉さんが生前に語った強制徴用と被爆の記憶と関連して、集会参加者らに配布された資料「金順吉さん『私の決意』」の一部を以下に紹介する。

資料「金順吉さん『私の決意』」

…わたしが微用で三菱長崎造船所に強制進行されたのは1945年1月9日のことでした。8月9日原爆が投下され、わたしは九死に一生を得ましたが、原爆によって膨大な人命が失われ今なお多くの被爆者が孤独、病弱、差別に苦しみ続けています。

わたしが三菱遺船所に黴用されたとき釜山出身35名と慶尚南北道出身300名余が造船所の裏山手の平戸小屋寮の木造二階建3棟に収容されました。

金さんが強制労働の実態をつづった日記

徴用工たちは各々の職場に配属されましたが、毎日の激務に、また空腹に耐えかねて逃亡者は続出し、けが人や栄養失調者もでました。…8月になり、日に日に空襲が激しくなりました。そして、8月9日11時頃突然北の空からB29の爆音が聞こえたので空を見るとB29の後尾に白い気球が見えました。今まで見たことのない物でした。B29はその気球を落として急旋回していました。その時刻は引き潮の時間で海は浅かったので、木船から飛び降り石垣の岸壁を必死の力でかけのぼると同時に、ピカッーと太陽が燃え尽きるようなせん光がわたしの身体に光ったかと思う間もなくドドーンというものすごい爆音がしました。息が切れそうな地響とともに食堂の屋根が壊れてきて下半身が下敷きになって気絶してしまいました。しばらくして、気がつき空をみれば、気球が浮いていたところの雲が真っ赤な火の玉のようになってくるのを見てまた気絶しました。ようやく気を取り戻して下水溝からはい出てみたら、そこには木鉢寮の徴用工たちが全身血だらけになってトンネルのなかに入ってきました。…

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