県立公園「群馬の森」に静かにたたずむ追悼碑
県立公園「群馬の森」にある朝鮮人強制連行犠牲者追悼碑をめぐる訴訟は、「政治的な判断」(下山順弁護士)を行った下級審判決を正すことなく、司法の役割を放棄した最高裁の不当決定によって幕を閉じた。
裁判でとりわけ問題なのは、追悼碑の設置を許可したにもかかわらず、排外主義団体によるヘイト街宣が起きるまで何ら対策をとらなかった県側の責任は度外視したまま、守る会側が追悼集会で「強制連行」という発言を用いたことで碑の中立性が損なわれ、よって碑の価値もなくなるという論法で、司法がすべての責任を追悼碑に帰結させた点にある。
1審判決*¹でいわれる「政治的行事」の追悼集会に対し、県が当初何の対応もしなかったことや、これによる公園利用者への影響がないこと、県の判断が社会通念に照らし妥当性を欠くことなど、同判決の指摘がいかにして解消されたのかは、碑の中立性喪失を理由に2審判決*²では、まともに言及していない。むしろ「強制連行」という「政治的発言」のあった追悼集会がいかに問題なのかという県側の主張をなぞる形で判決に採用した点で、2審判決は法的評価とは言い難い醜態をさらしたといえる。
今回の裁判は、碑の設置許可更新の可否にとどまらず、日本が植民地支配および戦争加害に対する総括として過去の歴史にどう向き合うのかが問われていたわけだが、ここで一度整理しておきたいのは、下級審判決および最高裁が、責任回避の口実に悪用した「強制連行」という文言についてだ。
裁判では、「強制連行」という文言について「歴史認識に関し主義主張を推進する効果を持つ」(1審)や「政治的争点(歴史認識)に係る一方の主義主張」(2審)だと判断したが、そもそも日本が朝鮮半島を植民地支配したことに起因する朝鮮人強制連行は、政治的争点に係る一方の主義主張なのか。
歴史研究者の竹内康人さんは、6月20日にあった集会で「強制連行という言葉は政治的主義主張の宣伝文句ではない1939年から45年までの日本政府による労務動員計画を説明する歴史的用語だ。だからこそ歴史の教科書や多くの自治体史にも書かれてきた」と述べたうえで、新潟県や神奈川県、長野県など自治体がまとめた史料にある記述、またそれと同様の文脈で発言された90年代の政府国会答弁を証拠として紹介した。
「募集、官斡旋、徴用と変化するものの朝鮮人を強制的に連行した事実においては同質である」(「新潟県史(近代編)」、1988年)
この日の竹内さんの報告によると、群馬県では1943年の終わりまでに約1500人が集団動員され、44年には新規移入として4560人が集団動員が計画されていたことが、内鮮警察の資料から判明している。
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碑の不許可処分が確定したことで、今後、行政代執行に従う碑の撤去命令が予測される。今回の最高裁決定は、言論や表現の自由をめぐる自主規制を加速させ、排外主義者らに対し、抗議すれば通じるというお墨付きを与えた点で、その罪は重い。いま、行政が、そして社会がとるべき行動は一体何なのか。
竹内さんはいう。
「たとえ屁理屈で棄却しても、強制労働の歴史は消し去ることはできない。その責任は問われ続ける」
(韓賢珠)