歴史の教訓、「共生」の可能性がここに/「ウトロ平和祈念館」が示す未来


祈念館2階の常設展示場入口

4月30日、京都ウトロ地区では平和祈念館の開催を記念して式典が開かれた。

筆者は式典後に祈念館の屋上へと向かった。同祈念館を中心にして四方を見渡すと、まるで日本の戦後処理が未解決であることを象徴するかのように、自衛隊の駐屯地、オートワークス京都(旧日産車体京都工場)、地域の学校そしてウトロ同胞らが住む市営住宅が目の前に広がる。

屋上からみえる自衛隊駐屯地

そのような象徴的な場所に建てられた「ウトロ平和祈念館」は、日本政府や企業、地方自治体が一切の戦争責任、戦後補償責任を回避し続けるなかで、立場や背景の異なる広範な市民らが一人また一人と手を携えたことで見えた歴史の教訓、そして、あらゆる人々が尊重される真の「共生」に向けた可能性がつまっていた。

植民地支配という前提

京都府宇治市伊勢田町51番地。近鉄京都線伊勢田駅から西の方へ徒歩10分ほどの場所に、ウトロ地区と呼ばれる朝鮮人集住地がある。元の地名だった「宇土口(うどぐち)」を「ウトロ」と呼んだことから、それが通称名となり、現在では正式名として広く知られるようになったこの地。ここには、かつて1300人もの朝鮮人労働者らが集落を形成し、労苦を共にしながら生活を営んでいた。その背景となるのが、1940年から日本の戦時国策として進められた京都飛行場建設であった。

2階にはウトロの歴史に関する常設展示がある

当時の通産省は、38年12月に日本各地5ヵ所に軍事飛行場および乗員養成所を建設することを発表。その2年後、京都府の誘致によりウトロ地区一帯が飛行場の用地に決定すると、国は出兵により不足していた労働力を、植民地支配した朝鮮人らで補った。つまりは、植民地という構造的支配のなかで、先述の朝鮮人労働者たちを軍需工場建設に動員し、過酷な労働を強いたのである。徴用や貧困を回避するために祖国から渡ってきたかれらが置かれた境遇は、まさに労働力としての強制連行に他ならなかった。

祈念館にはウトロに生きた同胞たちの貴重な証言が多数展示されている

過去、日本のメディアからの取材に対し、ウトロ町内会副会長(05年当時)だった厳本明夫さんはこのように語っている。

「朝鮮で事業に失敗したから、借金抱えて、口べらしのためなど、一世が戦前戦中に日本に来た事情は“個人史”です。しかし、その根底に、植民地政策の中で 日本は慢性的に労働力が不足していたこと、朝鮮半島の小作農が土地を奪われ転落していったことがあり、そういった個人史の集積が歴史の大きな流れなのです。…過去の歴史の総括がなされていないことが、日本にとってどういうことか。総括がなされない限り“戦後”は訪れないことを、ウトロを例にして考えてほしいと思います」(特集「京都府宇治市ウトロ51番地—-過去の精算が終わらない在日コリアンの町」より引用。05年11月11日「情報ネットワークふらっと」に掲載。)

展示物について説明する田川明子館長

ウトロの朝鮮人労働者らが従事した飛行場建設は、45年8月15日、日本の敗戦により中断。当時、一方的に失職に追い込まれたかれらに対し、国や企業から何ら補償はなく、事実上の放置状態にさらされた。さらに、50年代まで混乱を極めた朝鮮半島情勢と朝鮮での生活基盤喪失に伴う貧困などの影響も相まって、祖国へ帰ることもままならず留まるに至った。現在、ウトロ地区に暮らす同胞たちの大半がその子孫らである。

連帯運動の結実

2階常設展示場の一角にある「部屋再現-君子の部屋」。ウトロで暮らした故・金君子さんとかのじょの自宅を再現した展示が出迎えてくれる

関係者らの間で祈念館建設に向けた構想が練られたのは、いまから15年前の2007年。

それは、1988年に上水道が敷設されるまで、当たり前の生活インフラさえ整備されていない劣悪な居住環境下、またそのような外的要因により社会からの偏見と差別の目を向けられてきたウトロの同胞たちが、突如として住まいからの立ち退きを迫られた「ウトロ土地裁判」(89年~00年)1が終わり、生活の道筋がたちはじめた頃だった。

ウトロの同胞たちに送られてきた裁判訴状

最高裁が、ウトロの同胞らに立ち退きを命じる判決を確定させたのが00年11月のこと。当時、日本の司法は、同訴訟について民間(ウトロ同胞)対民間(企業)の「土地所有権争い」としてのみ解釈し判断。その原因である国や企業による責任の一切を問わなかった。他方で、裁判の終結とともに、司法の判断内容や訴訟相手となった民間企業の主が誰なのかという一部の事実を切り取る形で、住民らに「不法占拠」のレッテルを貼るような言説が増加することになる。司法による救済の道が閉ざされたことで、ウトロ同胞らの尊厳と居住権および生活権を守るための運動は、その後、土地の購入という新たな段階に向けて舵を切ることになった。

館内のようす

土地購入のための募金運動やウトロをとりまく現状について、当事者とその支援者らは国内外へ広く訴える活動を展開する。そんななか、04年に南朝鮮を訪問し、問題を訴えたウトロ同胞らの姿が大きく注目された。

さらに南の活動家らによる支援運動も活発化したことで、これまで同胞や日本市民、また総聯組織など日本国内でとどまっていた支援の輪が、一気に南社会でも広がることに。05年7月には、国連の特別報告者であったドゥドゥ・ディエン氏がウトロを訪問し「ウトロのコリアン住民が、植民地時代に日本の戦争遂行のための労働にかり出されてこの地に住まわされた事実に照らし、またそこに住むことを60年間認められてきたことを考慮し、政府は、これらの住民がこの土地に住み続ける権利を認めるための適切な措置をとるべきである」(IMADR訳文より引用)との報告書を提出するなど、国際機関からの関心の高まりも相まって、ウトロを守ろうという世論が国際的な広がりを見せた。

祈念館3階の企画展示室。現在は1世らの写真や証言からなる第1回企画展「ウトロに生きた人々」が開催中。

そうして07年10月、ウトロと西日本殖産との間で土地の売買契約が締結され、一部土地の買い取りにより、同胞たちは強制立ち退きという事態を免れたのだった。同年12月、国、京都府、宇治市による「ウトロ地区住環境改善検討協議会」が発足され、ウトロ土地問題の結実として、宇治市を事業主体としたウトロ市営住宅(第1期棟)の建設がスタートした。

ほとんどの展示写真が、これまで長年ウトロに足を運んできた職業カメラマンらによって撮影されたものだ

他方で、当時、ウトロ同胞や支援者らの間では、ウトロ地区における新たなまちづくりの必要性を求める声があがっていた。

「ウトロを守る会」の斎藤正樹副代表が指摘するように、今後「ウトロの新しい住宅は宇治市市営住宅として管理され、事業終了後は一般公募される。入居者のうち、韓国籍や韓国にルーツのある者の比率は今後どんどん減っていく」(HP「ウトロデジタルアーカイブ」より引用)。

かつて同胞たちが苦楽を共にした風景、生きた証がなくなってしまうかもしれないー。

そのような背景から、関係者らが新たなまちづくりの一環として乗り出したのが、ウトロの歴史を伝え、平和を発信する拠点としての祈念館建設である。2018年には日本と南朝鮮で「ウトロ平和祈念館建設推進委員会」が発足。南政府からの支援金拠出に民間財団や同胞、市民らの寄付といった支援が重なり、今日の完成に至ったのだった。

”象徴の地”に建つ意義

祈念館の入り口付近にある外部展示。1943年に建てられた飯場をそのまま移築した。

日本の植民地支配の残滓ともいえるウトロの地に開館した「ウトロ平和祈念館」(事業主体=「一般財団法人ウトロ民間基金財団」)。地上3階建ての建物は、1階にまず、多目的ホール「ウトロカフェ」が設けられている。元々、月に1度のペースで住民らが集まりコーヒーを飲んだり、それぞれが作った料理などを持ち寄った語り場「ウトロ喫茶」から着想を得たという。

「ウトロ喫茶のように、この祈念館でもたくさんの方々に交流や出会いの場を提供したい」(田川明子館長)

外部展示物のなかには、昨年の放火事件で焼けてしまったものも一部展示されている

また2階には、ウトロ地区形成の歴史的経緯から同胞たちの生活の様子、土地問題やその後の権利擁護運動などウトロの歴史に関する常設展示場が。さらに3階は企画展示室となっていて、現在は1世らの写真や証言からなる第1回企画展「ウトロに生きた人々」が開催されている。

外部展示である飯場内にはたくさんの写真が展示されている

祈念館の全体にかかる特徴として、展示写真はこれまで長年ウトロに足を運んできた職業カメラマンらが、展示物の監修等は同じく長きにわたりウトロ問題を追ってきたジャーナリストや学者らが務めているため、資料の豊富さもさることながら、資料的価値の高さも注目に値する。

さらに、同胞たちが提供した写真やモノの展示物などからは、上下水道の敷設やウトロ土地裁判をめぐる闘争など、朝聯時代から今日まで半世紀以上かけてウトロを守る活動に献身してきた総聯京都・南山城支部の金善則顧問(「金日成勲章」授与者)など、地域同胞に寄り添い続けた総聯運動の道のりがありありと映し出されている。

かつてそこに暮らした1世同胞たちの息吹を感じさせる「ウトロ平和祈念館」。是非多くの人々が足を運んでほしい。

(韓賢珠)

※1ウトロ土地裁判

ウトロ地区は戦後、地区一帯の所有権が飛行場の一角を担った国策企業から民間企業(日産車体)へと引き継がれ、87年、住民たちに知らされることなく土地が売却された。89年、ウトロ住民らは買い取り手の不動産会社(西日本殖産)から、土地の明け渡しをめぐる訴訟を提起され、2000年、最高裁で住民側の立ち退きを命じる判決が確定した。ウトロ問題の歴史的な原因をつくった日本政府および軍需企業が法廷で裁かれることはなかった。