第1回「高句麗からの渡来文化~強大国の誇り高く」/古代朝鮮と日本に関する連続講座


朝・日関係を視る観点を養う

16日に開講した連続講座「古代朝鮮と日本」。朝鮮大学校朝鮮問題研究センターが主催する本講座では、講師らが年間を通じて、古代朝鮮と日本の関係史を理解するうえで重要な観点を提供していく。初回となったこの日は、九州大学名誉教授の西谷正さんが登壇した。

4世紀末の間接的関係

「高句麗からの渡来文化~強大国の誇り高く~」をテーマにした第1回目の講演。西谷さんは、高句麗と日本列島の交流関係について、考古学の資料や遺跡から出てくる遺物などの物的証拠を通じて一つひとつ解説していった。

連続講座の講師を務めた西谷正さん

高句麗は、現在の朝鮮北部から中国東北部にかけた一帯に存在した古代朝鮮の国家で、紀元前277年に東明王(朱蒙)が建国した封建国家である。

西谷さんは、講演冒頭、その高句麗と倭(日本)の交流関係が、間接的なものから直接的なものへと変化していったとして、4世紀末からはじまる両国の関係を考察した。

両国の関係が4世紀末から間接的に存在した根拠として、同氏が指摘したのは、広開土王陵碑(中国・吉林省集安市)に刻まれた碑文のなかに、倭に関する言及があることだ。これをもって「高句麗と倭が間接的な接点を持っていたのではないか」と話した。

あいさつする金哲秀さん(朝鮮問題研究センター副センター長)

西谷さんは、その他にも両国の間接的関係性を示すものとして、大阪府柏原市の茶臼塚古墳にある積石塚をあげた。

「高句麗といえば積石塚、百済といえば横穴式というように、国々によって特徴的な墓制がある。茶臼塚古墳で発見された遺跡をみると、平面は長方形の形をした積石塚であった」(西谷さん)

またこれと相通じる遺跡として、同氏が指摘したのが、南朝鮮の石村洞4号墳で発見された積石塚だ。西谷さんは、これについて「百済の建国の地といわれる場所で積石塚が見つかったというのは、百済の建国当時、王陵クラスの墓に高句麗式のものがあったことを意味する。高句麗の王族が、王位継承抗争に敗れて南に下り、そこでふるさとの積石塚と同じものを築いたのではないか」と、2つの遺跡を通じた高句麗と百済、日本との関係性について解説した。

6世紀後半の直接的関係

また西谷さんは、福岡県博多市で発見された高句麗式の土器や、埼玉県行田市の酒巻14号墳から発掘された馬型埴輪などを通じて、高句麗の騎馬文化が日本へと伝来し、6世紀以降に定着する流れができたと説明。

初回講座終了後、参加者たちは朝鮮歴史博物館をみてまわった

「高句麗文化の渡来は6世紀後半に最も濃密になる」としたうえで、この時期から高句麗と倭の関係性が直接的なものに転換すると強調した。またその根拠に、高句麗古墳壁画を題材にして描いた福岡竹原の装飾古墳など、日本各地にある高句麗文化を用いた遺跡について言及。「歴史的にみても、新羅と唐が百済を倒し、その後、唐と新羅が組んで高句麗を倒す流れがある。6世紀後半、高句麗は倭国と手を結んで新羅を抑えようとした」と述べながら、日本各地の遺跡分析のみならず、6世紀後半からの新羅の勢力拡大に伴い、高句麗が倭と接近し、両国の関係が密接になった歴史的背景もその根拠にあげた。

この日の講演の結びとして、西谷さんは、「日本の渡来文化を考えた時、朝鮮の分裂国家時代、各地にあった国々とのつながりによって、先進的な技術や文化が日本に渡ってきている」と強調。現代の北東アジアや朝鮮半島と日本との関係は「古代からの複雑な利害関係や視点も交えて歴史的に考える必要がある」と述べた。

朝大記念館2階にある朝鮮歴史博物館を見学する参加者たち

参加者たちは、朝鮮から伝来した文化がいまも日本各地の遺跡などで確認できることなど新たな発見を交えた同講座を熱心に受講していた。

西谷さんが講師を務める連続講座の第2回目「百済からの渡来文化~文化大国の栄光映えて~」は、来る5月21日に開催予定。場所を変更し、朝鮮大学校講堂で行われる。(定員200名、22日時点での空き状況〇)

(韓賢珠)