〈学美の世界 31〉作品に込められた子どもたちの主張/崔栄梨
2021年07月03日 08:00 主要ニュース 文化タイトルは「僕はシャーペンより鉛筆が良い」(作品1)。私もそうなんですよ、と、声をかけたくなる。
文字がほとんどのこの作品、絵としてどうなのと問われかねないが、書かれた言葉、その繰り返し、2本の手、消しきれていない文字、その消しかす。すべてがタイトルの主張に向かっている。
文字が絵に入ると、鑑賞者が作品より文字の意味を考えすぎてしまったり、作品を見ることより文字を読むことに気がいってしまったりと、なかなか難しいものだが、この作品に書かれた文字は、言葉の羅列、繰り返しなどに一定の法則があるので、文字の読解や読むこと自体に引っ張られすぎない。おのずと、どうかかれているのか、に意識がいく。
シャーペンの部は一定のうすさで無機質だ。途中消しゴムで消しているが、うまく消えてくれないのもマイナスポイントだろうか。鉛筆に持ち替えた後は、書いた文字に比例してだんだん色や太さが変化している。リズムが生じる。どんどん丸くなりだからこそ折れる心配もなく力強くなってゆく文字。民族の文字を書くことができなかった歴史を思うと、こんなにたくさんの種類の子どもの文字を見られること、それ自体が奇跡のようだ。
最後の一行。えだまめ、からあげ…を音はそのままに朝鮮語で書かれた部分。「완두콩(ワンドゥコン)」ではなく、「에다마메(えだまめ)」。私は、こういう表現を見ると、在日がどこにも属さず独自に育んできたものの大切さを感じる。朝鮮学校に溢れる言葉は、「韓国語」の劣化版ではない、「ウリマル(私たちの言葉)」であると。
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すっきりとデザインされた画面の中央に朝鮮語で「性別」の文字(作品2)。その中には赤と青の人影があるが、どちらも半分はグレーになっている。「性別」だし、赤は女性、青は男性なんだろうという安易な考えを切り裂くようなかけらたちには、髪型や服などが断片的に、象徴的に、描かれている。性別がどちらかわからなくて、しばし考えたあと、気づく。私自身が男と女を分けようとしていたことに。どちらでもないように描かれているのは、「男らしさ」、「女らしさ」のイメージに対する警鐘ではないだろうか。
「ジェンダーレス制服」「ジェンダーフリー標準服」が導入され始めたニュースを聞いたのはつい最近のように思うが、何年も前から、子どもたちは疑問を抱き、時には苦しんできたのだと思う。社会を変える糸口は、みずみずしい感性の素直な疑問からだと感じる。美術の時間は、生徒たちの疑問が躍動する時間でありたい。
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「私は今まで在日韓国人だと名乗ってきました。周りの目が怖くて朝鮮でない事にした自分の生き方がすごく恥ずかしくて、胸を張って在日朝鮮人だと言えない自分がすごく嫌でした。[朝鮮=北朝鮮=悪]というイメージは日本の社会でつくられたものです。私はそんな社会の雰囲気にとらわれていました。
私は、そんな雰囲気の社会に立ち向かい、ありのままの自分をさらけ出していきます」(作者の言葉)
展示場の一角を覆うインスタレーション(作品3)。黒い幕には目の集合体。囲まれると、背筋が凍りそうだ。実際に囲まれているのは紙の塊。作者の名前が朝鮮語でびっしりと書き込まれている。その姿は、とても無防備に見える。つい先日、日本の大学で在日朝鮮人学生の朝鮮名への変更で問題が起こったというニュースを聞いた。その学生が日本名を名乗っていたことも、そもそもこの恐ろしい目が元凶だったのではないだろうか。朝鮮人であること、朝鮮名であること、日本に住んでいること。生まれる前から決まっている当たり前のことに対するこの恐ろしい目。自分にとって恐ろしいものを恐ろしく表現したということは、作者がそれに向き合って立ち向かおうとしていることとほとんど同義だと思う。その結果立ち上がってきたのは、羞恥を抱かせている元凶の存在。
作品を前にして私たちはどうすべきか。何かに立ち向かう若いエネルギーや勇気が、自分を責めることや羞恥へと向かわないよう、本当に恥ずべき相手に矛先が向かうよう、言うべきこと、行動すべきことがある。作者の勇気に続きたい。
(在日朝鮮学生美術展中央審査委員、福岡朝鮮初級学校図工非常勤講師)