〈3.1独立運動と朝鮮農民(下)〉運動の展開、その後の民族解放闘争/洪昌極
2019年03月27日 19:05 主要ニュース 歴史5. 3.1運動の展開
甲午農民戦争以後、植民地化過程における義兵たちの反侵略闘争は徹底的に弾圧された。そして1910年代、国内では武断統治体制下、国権回復のための実力培養を志向する愛国啓蒙運動などがおこなわれた。一方で一切の政治的・民族的団体活動が許されない条件の下、天道教・キリスト教・仏教などの宗教団体は、一般大衆が集う受け皿としての機能を持っていった。また国外では、中国・ロシア・アメリカ・日本において軍官学校や党、青年・学生組織などが結成され、独立運動のための力量が蓄積されていく。
当時の独立運動家たちは、第1次世界大戦後の国際的条件を好機と捉え、パリ講和会議に朝鮮代表を送り朝鮮独立を請願する計画を立てた。それに呼応して日本では、留学生たちによって二・八宣言が発表され、また国内では、天道教・キリスト教・仏教団体の指導者らが中心となって独立宣言が作成された。
こうした一連の政治運動は、3.1運動を勃発させる上で非常に重要な役割を果たした。ただし、1919年に発表・作成された二・八宣言と3.1独立宣言はともに、土地調査事業が終了した翌年という時期的背景を持っていたにも関わらず、農民たちを苦しめていた土地(地主制)問題について一切言及しなかったという点において限界性を持っていた。
ところで3.1運動そのものの展開過程は、3月1日から5月頃まで段階を分けてその特徴を把握することが可能である。ソウル・平壌・義州・元山などの都市部を中心に口火を切った示威運動は、3月中旬以降、農村への広範囲な拡がりを見せることで最も大規模化・暴力化する。この時期に、農民たちを初めとした下層民たちが運動の主導的役割を果たすようになる。農民たちは、農楽などによって住民たちを奮い立たせ、「国有地」における小作料引き上げに対しては「朝鮮は独立されたためそれは必要ない」として拒絶し(平安南道中和郡)、怨恨の対象となっていた警察駐在所・面事務所を襲撃した際には、土地調査事業によって整備された土地台帳などを焼却した(慶尚南道安東郡)。さらに「朝鮮が独立されれば国有地が小作人の所有地となるため万歳を叫ぶのが得策である」としながら示威運動をおこなった(京畿道始興郡)。独立宣言の限界性は、農民たち自身が示威運動の担い手となる過程で乗り越えられていったのである。
6. 3.1運動後の民族解放闘争
3.1運動の経験は、その後1920年代以後に民族解放闘争を牽引していった運動家たちの脳裏に深く刻まれることとなった。『アリランの歌』で有名な金山は、「1日いっぱい、わたしは町の中を走りまわり、どのデモにでも加わって歩き、とうとう声がつぶれてしまった。…その数週間後に伝わってきたヴェルサイユの裏切り〔パリ講和会議のこと〕のショックは言語に絶するものだった。自分の心臓が裂けて、飛び出したかと思ったほどだった」と当時を振り返っている。そして当時8歳であった金日成主席は、「3.1人民蜂起は、私を人民の隊伍の中に立ててくれ、私の網膜に我々民族の真の影像を刻んでくれた最初のきっかけであった」(『回顧録 世紀と共に』1)と回顧している。
金元鳳などが主導した義烈団では、3.1運動の4年後にあたる1923年、「朝鮮革命宣言」が発表されているが(執筆は申采浩)、ここでは、「「外交」、「準備」などの迷夢を捨てて民衆の直接革命の手段を取ることを宣言する」と述べられており、3.1運動以後に展開される民族解放闘争の問題意識が明確に表現されている。
そして1920年代後半に差し掛かると、植民地地主制下で生きる農民たちの生活問題に、民族解放闘争が本腰を入れて取り組んでいく兆しが見えてくる。1927年、左右合作抗日運動団体として結成された新幹会では、支会の政策案において「日本人移民反対」、「東拓廃止」、「耕作権の確立」、「最高小作料の公定」、「少年及び婦人の夜業労働禁止」、「女子の法律上及び社会上の差別撤廃」、「女子の人身売買の禁止」などが謳われており、新幹会と共に同年結成された抗日女性運動団体槿友会の行動綱領では、「早婚廃止および結婚の自由」、「人身売買及び公娼の廃止」、「農民婦人の経済的擁護」など、農民的立場に立った進歩的な綱領が盛り込まれた。新幹会・槿友会を牽引していったのは、3.1運動の感動的体験をきっかけに運動に身を投じるようになった運動家たちであった。
植民地期に最も大衆的基盤を持った運動団体の1つ、農民組合運動においても、「小作料の4割制定」、「小作権強制移動反対」、「永久小作権の獲得」、「婦人及び青少年に対する封建的抑圧の打破」(「農民総同盟行動綱領」1931年)、「家族不和民族不親切等の境遇には審判機関を作」るなどが謳われている(「農民組合再建と農民問題」1938年)。こうした実践活動が地域密着でおこなわれることで、貧農階級や青年女性の活動家が多く輩出され、そのことがさらに運動を活発なものにしていった。また、これは単に生活問題への取り組みという次元にとどまらず、祖国光復会などの国外における武装闘争とも有機的に結合され(キム・ジョンスク「1934~1937年明川農民たちの革命的進出」『歴史科学』1958年)、民族解放闘争そのものを強力に推進する力となっていった。以上のような実践活動は断じて平坦な道のりで為されたものではなかった。悪名高い治安維持法などを根拠とした身の毛のよだつような弾圧と闘いながら、運動は大衆化し、大衆は政治・経済の主体となっていったのである。
植民地地主制を解体する土地改革案に関して言うならば、土地改革は3.1運動以後の民族解放闘争における運動上の理念として徐々に定着していく。注意しなければならないのは、こうした理念は左右両勢力が共有する社会改革理念であったということである。中国で活動していた、民族革命党の綱領や(金奎植などが主導・1935年・南京)、金九などが主導して作成した「同志同胞諸君に送る公開通信」(1939年・重慶)にも土地改革案が盛り込まれるに至った。
このような一連の歴史的経緯から考えると、解放後の1946年、朝鮮北部においてほぼ同時期に布告された土地改革法令と男女平等法令は、民族解放闘争がもたらした歴史的成果であり、同時に、植民地地主制下で「貧困」と「親族の不和」(植民地期朝鮮人自殺統計の男女別で最も多い原因)に苦しみ続けた朝鮮農民及び農民女性たちにとってみれば、血と汗と涙の結晶であったと言えよう。
7. むすびにかえて
3.1運動に参加した農民たちの背景には、日本帝国主義の暴力を後ろ盾とする日本人の入植、朝鮮人の全階層的没落、土地喪失と植民地地主制の本格化による朝鮮農民の階級分化という、社会経済的要因が存在する。
そのような背景の下で勃発した3.1運動は、<運動の大衆化=大衆自身の政治経済的主体化>の起点となった。甲午農民戦争以降に一旦影を潜めてしまった農民的立場からの社会改革という歴史的課題は、3.1運動を契機として再度民族解放闘争の中心的課題として浮上することとなる。このように、3.1運動以後、民族解放闘争が武装闘争と連結される形で大衆の苦悩に真正面から取り組んでいったことは、十分に強調されなければならない。我々が全民族的な統一朝鮮を希求するにあたり、3.1運動を大衆運動の起点として捉える視点が改めて必要になってくるのではないかと私は思う。
(一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程)