〈特集・ウリハッキョの今〉東京中高/インタビュー・林光進さん
2016年10月08日 08:00 民族教育力を合わせれば学校は残る
大阪で生まれ、済州島、東京、茨城で学校に通い、解放を迎えた。親せきらの話に刺激を受け、小学校6年生だった私も祖国のために生きようと思った。翌年、算数、理科を猛勉強して電気工業学校に入学。86人中16番目の成績だったが、ここに通ったのは2学期まで。家族で済州島に帰るとアボジに言われ、47年1月の3学期から前年の10月に創立した東京朝鮮中学校に転入した。茨城から往復4時間、毎日超満員の汽車通学だった。
校門の看板は大きいが、教室は天井がなくトタン屋根のみ。雨が降れば水が落ちてくる。枠はあるが窓ガラスがないため風が吹くと砂が入ってきた。もともと銃や銃弾を作る軍需工場だったから運搬の線路もあった。鉄筋4階建ての電気工業学校とは大違いで、見た目はみすぼらしかった。