〈現地ルポ〉熊本地震、日常が「非日常」に
2016年04月22日 15:19 主要ニュース「絶対に生きて会おう」
熊本県で14日から立て続けに起きている地震によって、多くのものが失われ、人々の生活は一変した。同胞たちは現在も不安とストレスに苛まれながら日々を過ごしている。被災地に記者が入った。
生と死が隣り合わせ

家財が散乱する同胞宅
轟音とともに大地が激しく揺れ動く。「これまで経験したことのない衝撃に襲われ、生きた心地がしなかった」(熊本地域青商会の康英一会長、36)。
多くの同胞家庭で、14日に起きた「前震」では被害が少なかったが、16日の「本震」では家財が至る所に散乱し、水、ガス、電気などのライフラインが止まるなど、日常生活において大きなダメージを受けたという。自宅が半壊し、取り壊さざるを得ない状況に陥った同胞もいる。
同胞たちに人命被害はなかったが、生と死がすぐ隣合わせの状況にあったのは事実だ。
ある同胞は目の前に倒れてきたタンスをとっさに手足で押さえ、ある同胞は布団をしっかりかぶっていたため胸の上にテレビが落ちてきてもケガはなかったという。

品薄状態のコンビニ
「本震が起きた時、足元に大きなCDデッキが落ちてきた。前震の後に頭の位置を逆向きに変えていなかったら…。考えただけでも背筋が凍る」。
八代市新浜町に家族とともに住んでいる朴智淑さん(57)の自宅は、海岸から約100メートルしか離れていない。「本震」後、同地域では津波警報が発令された。
「5年前の東日本大震災での大惨事が思い浮かんだ。必死で家から逃げ出して近くのショッピングモールの屋上に向かった。事態が落ち着いた夜明けまで、そこから一歩も動けなかった」。
熊本県の同胞たちは現在も余震に神経をすり減らしている。目に入るのは、これまでとは全く違った光景だ。
家屋が破壊され、コンクリートの地面や建物の壁には亀裂が走っている。地域によって差はあるものの、コンビニやスーパーマーケットでは、おにぎりやパン、お菓子や飲料水などの棚がすっかり空いていた。「これまで当たり前だと思っていたものが無くなってしまった」(朴智淑さん)。
断水が続き、生活用水が不足。総聯熊本県本部会館でも蛇口をひねっても水は出てこない。
無料開放された銭湯には長蛇の列が並んでいる。筆者が足を運んだ1カ所目の銭湯では、外に並ぶあまりの人の多さから入店を断られ、2カ所目では最大で2時間待ち。男性以上に女性たちの姿が多く、顔には疲労感が滲んでいた。
「早く日常が戻ってほしい」というのが、人々の切なる願いだ。
暗闇に差し込んだ光

避難所で生活を送っている同胞夫婦のもとを総聯活動家たちが訪れた
20日。暗がりの中、熊本市内の中学校の門をくぐると、オレンジ色の照明に照らされた運動場は何台もの車で埋め尽くされていた。一台、また一台と入ってくる車の中には、「災害支援」の張り紙を付けた自衛隊の車両もあった。
体育館では約1000人が避難生活を送っている。16日に本震が起きた直後は2000人の人々で埋まり「足の踏み場もなかった」。金洋子さん(74)はそう語った。夫の李炳杓さん(76)は車椅子生活を送っている。
「ちょうど昨日(19日)に医者が見回りに来て、夫がクッション性のあるマットレスをもらえたの」(金洋子さん)。見渡すと、他の人々は支給された薄い茣蓙(ござ)の上で毛布をかぶって寝ている。体育館の床は固く、冷たい。
夫婦は度重なる余震に対する恐怖のあまり昼間は家で過ごすが、夜は避難所に移っている。支給される食料は、一食につき一人当たり、おにぎり一つの場合もあるという。「食べる量は多くないから心配しないで大丈夫」。

被災同胞に救援物資を手渡す総聯活動家
その話を聞き、救援活動にあたっている総聯活動家たちが翌日、各地の同胞たちから送られてきた食料を届けた。「こんなにたくさんもらっていいの?本当にありがとう」
一方、同胞たちの心が詰まった支援物資を見た梁茂男さん(55)は、ある思い出がフラッシュバックしたという。
1995年1月に起きた阪神・淡路大震災。当時、岐阜で仕事に就いていた梁さんは、宮城と東京に住んでいた朝大の友だちとともに、大量の支援物資をトラックに積んで兵庫県へ救援活動に向かった。
「街中は地獄絵図だった。見渡す限り瓦礫の山で、正直そこから逃げたいと思った。でも同胞たちのために踏みとどまった」
いつの時代も変らない同胞社会の相互扶助精神に、熊本の同胞たちは一様に感銘を受けている。
熊本学園大学に通う九州中高出身の朱鮮美さん(20)は「『本震』が起きた日から2日間は1秒も寝つけなかった」と話す。
16日の未明、地震と同時に停電が起きた。暗闇が恐怖をさらに掻き立てた。その後、「横になりながら、『あと4時間、あと3時間…』と朝が早く来ないか待っていたことも」
精神的に追い詰められていた中で、心の暗闇に一筋の光が降り注いだ。九州中高時代の同級生をはじめ多くの人々から激励のメールや電話が届いた。
「救援物資はもちろんのこと、『頑張れ!』っていう応援をもらって勇気と安心感が沸いた。地震が起きた時は本当に死ぬかと思った。でも友だちと約束した。『絶対にまた生きて会おう』と」。
(李永徳)
- 品薄状態のコンビニ
- 同胞宅のブロック塀が崩れた
- 被災同胞に救援物資を手渡す総聯活動家
- 地震の影響で地面が隆起している
- 家財が散乱する同胞宅
- 家財が散乱する同胞宅
- 故障したエレベーター
- 地震によって傾いた建物
- 地面に亀裂が走っている
- 家財が散乱する同胞宅
- 崩れかけているブロック塀
- 総聯熊本県本部委員長が同胞たちに慰問金を手渡した
- 総聯熊本県本部委員長が同胞たちに慰問金を手渡した
- 被災同胞に救援物資を手渡す総聯活動家
- 支援物資を運ぶ総聯活動家
- 同胞たちから贈られた支援物資
- 被災同胞に救援物資を手渡す総聯活動家
- 家財が散乱する同胞宅
- 家財が散乱する同胞宅
- 総聯熊本県本部委員長が同胞たちに慰問金を手渡した
- 総聯熊本県本部委員長が同胞たちに慰問金を手渡した
- 避難所で生活を送っている同胞夫婦のもとを総聯活動家たちが訪れた
- 被災同胞に救援物資を手渡す総聯活動家
- 総聯鹿児島県本部からは水が届けたれた
- 被災同胞たちを総聯活動家たちが激励した
- 総聯熊本県本部委員長が同胞たちに慰問金を手渡した
- 被災同胞に救援物資を手渡す総聯活動家