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〈続・朝鮮史を駆け抜けた女性たち 44〉父の口癖は「家督を継がせたかった」 / 淑人慶州金氏

2012年10月13日 11:58 主要ニュース 文化・歴史

実家と嫁ぎ先から最大の賛辞

女性に対する抑圧が社会的に強化されていった17世紀の朝鮮王朝時代、「家督を継がせたい」と父に言わしめた女性はそう多くはいないだろう。

淑人(正三品堂下官と従三品文武官の妻に授けた封爵)慶州金氏(1614~1693)は幼い頃から聡明で、行いは慎み深くまた正直であったという。禮曹判書であった父金南重(キム・ナムジュン)は、いつも「お前が男だったなら、我が一門は大成したに違いない」(汝若男子、必大吾門「明齊遺稿 39巻」)が口癖で、この言葉から彼女がいかに「女にしておくにはもったいない」機智と度量が備わっていたのかがうかがえる。16歳で嫁ぎ、1637年の戦乱のさ中、嫁ぎ先の家族を献身的に支え守り抜いたと伝わる。船で避難の途中、嫁ぎ先の祖母が病で亡くなると、周りに助けてくれる者もいない中、祭祀に必要なものや義父母の衣服と食物も自力で揃えた。また、夫の兄弟姉妹がまだ幼く子育てをするも同然だったが、微塵も厭うそぶりを見せず力を尽くした。義父母はこう言ったという。「大変だった流浪の時期に我々二人と子らが無事であったのは、もっぱら嫁のお陰だと言えよう。子孫たちに嫁の真心と孝行心を見習せれば、(家門が)栄えないということはないだろう」(流離險難之際、吾二人與諸兒之保全、專賴吾帰、倘使子孫、如吾婦誠孝、安得不昌「明齊遺稿 39巻」)

淑人慶州金氏イメージ

懸命に生きる

淑人金氏は、夫が遠流の刑に処された間に義父母が病に倒れ、長い闘病にもかかわらず夜衣服を着替えることも忘れ看病し、亡くなると3年もの間家の柱を日時計の代わりに墨で印を入れ祭祀の時刻を守ったという。また、夫の弟が3人相次いで病に倒れるとわが子同様に看病、亡くなると金氏自らの財産をその葬儀と埋葬に充て立派な墓を建て、3人の義弟の未亡人と子らを養った。

夫が地方官として赴任した時は、その地方の夫の同僚の中に困窮している者があれば俸禄を分け与え、自らの生活は質素を心がけ節制を旨とし、使用人にも徹底して節約を命じた。

1663年、実家の父と夫が相次いで亡くなると自らも病に伏せていたにも関わらず、祭祀を行う際は寒い冬でも使用人も含めて一家全員沐浴をさせ、自分が水で祭器を洗い、庭を掃き清め清浄を保った。子らを教育する際は必ず正しい言動を心がけ、間違いを正すときは甘やかすことはなく徹底的に叱った。使用人には威厳と温情で接し、讒言や阿りを厳しく禁じたため家内がいつも和やかで、人々が互いに陰口をきくこともなかった。

金氏自身は美しい絹や宝石などに興味はなく質素、非常時のために買っておいた換金しやすく軽い麻も、戦乱の最中は危ないと言う息子の言葉に従い二度と買わなかったという。夫が鳳山の官吏に任命された時も、「鳳山は夷狄の使節団の通り道で大変危険です。後日、湖南地方に任命されたら赴き、子どもたちも湖南の士人に弟子入りさせましょう」と、柔軟な見識を見せ、感服した夫が従ったというから驚きである。また、息子が友人との約束を守り通したため遠流に処されることになった時も、義理堅い息子を褒めたという。

80年の人生

記録に残るのは、実家と嫁ぎ先、夫と子らのために捧げた一生である。自分自身のために何をしたのかは一切うかがえない。

「ああ、淑人(金氏)は美しい徳、正しい行い、親思いの志、その全てを兼ね備えていた。・・・ああ、婚前は(実家の)父母がその孝行ぶりを褒め、嫁した後は義父母がその誠意を褒めた。夫を敬いながらも諫め、子らには愛情深くも厳しく諌めた。物事の道理の大きな志に通じ、深く学んだ君子のような面があった。ああ、古からいう女史とは、このような人のことを言うのだ」(鳴呼、淑人之徳、懿行、孝子志之悉矣。・・・鳴呼、在室而父母稱其孝、既嫁而舅姑稱其誠。事夫子敬而箴、訓子女慈而莊。至其通暟於道理大體、又有類乎讀書君子、鳴呼、豈非古所謂女士者歟)

息子羅顕道(ラ・ヒョンド)の依頼を受け、友人尹拯(ユン・ジュン)が墓石に刻んだ一節である。1693年12月8日、病に倒れるまで金氏80年の人生であった。

(朴珣愛・朝鮮古典文学、伝統文化研究者)

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