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〈日朝和解への道 -上-〉日本敗戦直後、朝鮮の降仙で産声 / 江口済三郎さん

2012年08月28日 09:54 文化・歴史

母子を助けた優しい人々

日朝国交正常化の実現をめざして、長年取り組んでいる「虹の架け橋」の江口済三郎代表(前中野区議=66)と妻の久代さん(61)が、今年5月、初めて連れ立って訪朝した。江口さんは中野区議を36年間務め、昨年引退するまで、区民の生活を守るため懸命に働く傍ら、在日同胞の民族権利擁護と日朝交流に情熱を注いだ。そして、今、日朝平壌宣言10周年を記念して開催予定の「日朝国交正常化をめざす全国集会」(9月13日)の成功に向けて汗を流している。

江口さんの母、須美さん

いま、「朝鮮と関係改善に取り組む」と言えば、周囲からは奇異な目で見られる風潮がある。そんななか、飄々として初志貫徹し、訪朝7回を重ね、友好関係を深めた江口さん。なぜ、そこまでがんばることができたのかを問うと、――そこには日本敗戦直後、朝鮮・南浦の降仙で産声を上げた江口さんの誕生秘話と母須美さん(102)の朝鮮への深い感謝の気持ちが脈々と波打っていた。

江口さんの家族は、父が満鉄総裁の秘書長を務めていたため、中国・新京(現・長春)で暮らしていた。しかし、1945年8月6日の広島、続く9日の長崎への原爆投下の急報を受け、満鉄上層部の決定もあり、身重の須美さんは子ども4人を連れて引き揚げることに。列車で南下して、朝鮮に入り、後に朝鮮の千里馬運動のシンボルともなった降仙製鋼所(現・千里馬製鋼連合企業所)に設けられた旧三菱製鋼の社宅に入った。そこで生まれたのが江口さん。9月8日のことだった。「あの混乱の中、仮死状態で生まれた。朝鮮の人たちには水やら、米、味噌までいただいた。感謝してもしきれません。食べ物のない時代に、敵国の母子にあんなにまで優しく世話してくださって」と、振り返る。

江口済三郎さんと妻の久代さん

そこで数日過ごした母子は、38度線がすでに封鎖されたとの報を受けて南下をあきらめ、列車でまた新京の夫のもとへ。「生まれたばかりの済三郎のへその緒は激しく揺れる貨車の中で自然に取れた」と須美さんは遠い日の記憶を手繰り寄せた。しかし、やっとたどりついた新京もすでに安全ではなかった。国共内戦の最中でもあり、単発的に起こる市街戦が終わるのを家の中で息を潜めて待つのが日常の風景だったという。実際、須美さんの知人が流れ弾に当って命を落とす悲劇もあった。

(詳細は朝鮮新報8月29日号8面、5面掲載)

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