「忘れられない少年の死」 鉄原洋酒工場で酒樽配達員として働いていた父は、1941年9月のある日、悪質な日本人監督と争ったことが「罪」となり、郡警察署に連行されて拷問を受け、釈放から2日目に亡くなった。 [...]…
「生き残ったのは41人だけ」 1943年10月、小学校を卒業した私は、日本人が15~18歳までの青少年労働者を募集する「広告」を平壌で見かけた。そこには、「待遇もよくさまざまな面で優待される。専門技術 [...]…
「甘言を弄して騙した」 私が8歳の時、祖母と両親、8人の兄妹は口に糊することすら難しかったため、故郷を離れ慈江道慈城郡に移り住んだ。しかし、ここでも両親は貧農として働くのが精一杯で生活は相変わらず苦し [...]…
「戦争で廃人になった」 私の一家は、代々咸鏡南道北青郡リャンガリで暮らしてきた。6歳の年、叔父が3.1運動に参加したという理由で一家の全財産が差し押さえられた。このため私の家族は食べられなくなり、離れ [...]…
「葬式は自分たちでやれ」 小学校の卒業を控えた3月のある日、日本人将校に呼ばれ同級生1人とともに教員室に行った。教室には校長がいて、「お前たちは光栄にも日本で勉強することになった。日本で勉強すれば技術 [...]…
「我慢越えた虐待と蔑視」 私は8人家族で、父と私が鉱山で働いた金で糊口をしのいでいた。44年初夏のある日、鉱山駐在所の巡査から翌朝までに面駐在所に行けという通知をもらった。翌日、駐在所に行くと署長が「 [...]…
「早朝から作業、水もくれず」 20歳の時、「赤紙」を持った憲兵隊と警察官が家に来て、私を強引に郡所在地に連れて行った。そこにはすでに300人の青年たちがいて、汽車で平壌の44連隊に連行され2カ月間予備 [...]…
日本の敗戦から今年で60年を迎える。しかし、日本は朝鮮をはじめとするアジア諸国に犯した罪に対し、補償はおろか心からの謝罪すらしていない。最近では歴史わい曲の動きとともに「独島領有権」を主張するなど、軍 [...]…