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関東大震災時の朝鮮人虐殺の証言者、元教師の八木ヶ谷妙子さん死去

「生きるのよ!」隣人への愛伝えた一生

今年で90周年を迎える関東大震災時の朝鮮人虐殺現場。その悲惨な現場を目撃し、体験を語り伝えてきたNPO法人「共に生きる国際交流と福祉の家」(通称=もくれんの家)理事長で、元教師の八木ヶ谷妙子さんが1月2日、死去した。享年99。10日、11日にしめやかに執り行なわれた通夜と葬儀には、生前、縁の深かった関係者をはじめ在日同胞や韓国、中国の人々も参列した。

おごそかにとりおこなわれた葬儀

八木ヶ谷さんの多岐にわたる平和活動に惹かれ、8年前、「もくれんの家」の隣家に引っ越して、家族のように過ごしてきた編集者・ライターの角取明子さん(57)は「八木ヶ谷さんは約2年前から家で療養生活に入り、晩年は病院で過ごした。ベッドで『ここにいても、全部分かるのよ』と話していた。最後まで生きることの大切さを伝えてくれた」と話す。角取さんはこれまで、八木ヶ谷さんの思いを引き継いで、「関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会」の事務局スタッフとして院内集会などを開きながら、学習会を重ねてきた。今年、9月の90周年に向けて、多くの人たちに参加を呼びかけたいと述べた。

八木ヶ谷さんの葬儀には自身が書いたドストエフスキーの「本当の道というものは まっすぐで 明るくて 水晶のように澄みわたって そのはては大洋が輝いている」の色紙が配られた。まさしく、その一生は、真実一筋の「まっすぐに澄みわたった」ものであったといえる。

八木ヶ谷さんが朝鮮人虐殺の目撃証言を集会やメディアで語るようになったのは、93年から。事件から70年が過ぎていた。「絶えず、心のなかに彼がいた」という。「彼」とは、震災の数日後、千葉県の自宅近くで見た木に縛られた朝鮮人。「彼は目隠しをされ、松の木にくくりつけられた。大人たちは銃のようなものを手にしていた」。

「幼心にも彼は殺される」と直感した八木ヶ谷さんは、泣きながら家に帰ったという。後に、家族や友人らとのヒソヒソ話を聞き、「彼」が銃殺され、穴に埋められたことを知る。

虐殺は官憲による流言がもとで、各地で起きた。数千人規模の朝鮮人が犠牲になったが、いまだ真相は闇のなかに閉ざされたままである。

八木ヶ谷さんはあの日に見た「彼」の姿を胸の奥底にしまって、成長。千葉県、東京都なとで約40年間、小学校教師を勤めた。命の尊さと隣人、隣国への愛の大切さを子どもたちに説き、導いた。原点はあの時の「彼」であった。「なぜ、彼がいわれなく殺されねばならなかったのか。殺した者も殺された者も、一体、これはどうしてこんなことになったのか。その元凶は誰か。それを追及せずには、また、日本は同じことを繰り返すことになるのではないか」。

東京朝鮮第9初級学校での運動会にて(前列左端が八木ヶ谷さn、2010年)

2003年には、「もくれんの家」を立ち上げ、理事長に就任。南からの留学生を支援したり、朝鮮学校の子どもたちとの交流も深めていった。2007年には、関東大震災の朝鮮人虐殺を追及する研究者らと真相究明と犠牲者の名誉回復を求める会を発足させ、学習会を開いてきた。それは、虐殺の真相を闇に葬ろうとする日本政府、メディア、社会への強い警鐘でもあった。

「犠牲者は死んでいない。この犠牲者とご苦労なさった在日の2世・3世の人たちは重なる。この人たちを中心にして朝鮮半島の人々と交流を深めていくことが犠牲者への鎮魂になる。今、『拉致、拉致』と一方的に攻撃していることは、決して明日への友好の道ではない。日本が孤立する道ではなく、ともに生きる道を求める活動に踏み込んでいこう」(冊子「生きるのよ!―中国・朝鮮への想い―」 文・八木ヶ谷妙子)と最期まで心をこめて訴えていた。八木ヶ谷さんは長い教師生活の間、ひとりひとりの子どもの心のなかに「たった一つの花」をみつけ、「ほら、自分らしく咲いてごらん」と励まし、やさしく見守り続けてきた。

それは、あの日にみた「彼」から託された想い、そのものであったのだろう。

(朴日粉)

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