公式アカウント

「卓球女王」が選んだ第3の人生、障がい者体育協会 リ・プンフィ書記長

2012年08月01日 17:42 スポーツ

91年統一チームの「記憶、今も」

【平壌発=李相英】朝鮮卓球界の女王として、世界に名をとどろかせたリ・プンフィ選手。現在44歳。国内の障がい者スポーツ部門を担当する朝鮮障がい者体育協会で書記長を務める。1991年に日本・千葉県で開催された第41回世界卓球選手権大会・女子団体戦で優勝したときの思い出、障がい者スポーツ部門に従事するようになった経緯と今後の抱負について聞いた。

やりがいある仕事

朝鮮障がい者体育協会は2010年1月に発足した。障がい者保護連盟傘下につくられた同協会は、金萬有病院(平壌・大同江区域)の敷地内に事務所を構えている。

リ・プンフィ書記長

現在、リ書記長は8月29日にロンドンで開幕するパラリンピックを前に、忙しい日々を送っている。朝鮮が初めてパラリンピックに選手団を派遣するためだ。彼女も役員の一人として同行する。

「今回、17歳のリム・チュソン選手が水泳種目に出場する。彼は幼い頃に事故で左腕と足を失ったが、パラリンピック出場という大きな目標を立て、トレーニングを積んできた。(出場が決まり)彼の両親もどれほど喜んだことか」

協会で働き始め2年半が過ぎた。ここでの仕事は「やりがいがあり幸せ」だと口にする。

朝鮮のスポーツ界でリ書記長の名を知らない人はいない。それは彼女が朝鮮卓球界で打ち立てた傑出した功績に由来する。現役時代の1980年後半から90年代初期にかけて、数々の国際大会で活躍し、国からは、スポーツ選手として最高の栄誉である「人民体育人」の称号も授与された。

人々の記憶に今も鮮やかな91年4月、北南朝鮮が統一チーム「コリア」を編成し、女子団体戦で優勝を勝ち取った世界卓球。中心選手として注目を集め、在日同胞たちにも広くその名が知れ渡った。

翌年に結婚。93年に現役を引退した後、朝鮮体育大学で学び、クラブチームの監督を務めた。その後、障がい者体育協会の発足から現在まで書記長として活動している。選手、監督に続く「第3の人生」の選択には、彼女の息子の存在があった。

未来への希望を

「今年16歳になる息子は、生後6ヵ月で大きな病に冒された。高熱が続き20日間も意識がはっきりしなかった。命は取り留めたものの、脳性麻痺の後遺症が残った」

息子を育てる過程で、自分の考えにも変化が起こり始めた。「障がい」というものに意識が自然と向かった。「結婚前は、卓球選手として個人の名誉が欲しくなかったか、と言えばうそになる。でも今は肉体的に、精神的に傷を負った人たちのために働くことを、誇りに、幸せに感じる」。

スポーツは障がい者を取り巻く社会環境を改善し、人々の関心を高めるうえで多きな役割を果たす。また、スポーツは障がい者自身が未来への希望を抱く原動力にもなる。まさにそれがリ書記長の信条になっている。

「障がい者は自分の障がいに悩み、恥じ、自暴自棄になりうるが、協会ができたことで、彼らが希望を持って人生を歩めるよう手助けができると考えている。スポーツを通じ、能力と適性に応じて生きていく』という自信も生まれる」

リ書記長は、障がい者問題に対する社会の関心を喚起するために、2010年から協会主催で障がい者と健常者が共に参加する卓球大会を開催している。今年初めて参加するパラリンピックでも、好成績を残せるというよりも「開幕式会場に朝鮮国旗がはためくこと自体を成果だと思う」と話す。今後、冬季パラリンピック参加も視野に入れ、強化種目数を増やし障がい者スポーツを発展させることが、次なるステップだ。

私たちは同じ民族

91年世界卓球。北南統一チームは当時、女子団体8連覇中だった中国を決勝で破り優勝した。当時の光景は21年の歳月が流れた今でもはっきりと記憶に残る。

「日本ではなく他国での大会だったなら、果たして優勝できていたか、という思いもある。あの時の優勝は、総聯と民団が一つになった在日同胞たちの熱烈な応援と支援があったからこそ成し遂げられたものだと感じている。優勝の要因の70%ぐらいと言っても過言ではないほど」

選手たちが滞在した約40日間、長野、新潟、千葉をはじめ行く先々で選手たちを歓迎する同胞たちがいた。心のこもった朝鮮料理も振舞ってくれた。

「熱狂的に応援してくれた同胞たちの姿が、今でも脳裏によみがえる」

リ書記長によると同胞たちの愛情に支えられ選手たちは「必ず優勝しよう」と互いに励まし合っていたという。「中国に必ず勝とう、私たちが力を合わせればできないことはない、とその間、私たちは一つの民族ということを実感した」。

笑顔で再会したい

91年世界卓球でペアを組んだリ・プンフィ選手(左)と玄静和選手(撮影:文光善記者)

当時、統一チームでリ・プンフィ選手は南の玄静和選手(現「大韓卓球協会」専務理事)とダブルスを組んだ。世界ランク3位のリ選手と5位の玄選手のペアは「ゴールデンコンビ」と呼ばれ、注目を集めた。

「玄静和選手は年齢が私の一つ下、呼吸もピッタリだった」。リ書記長は当時を振り返りながら、「クレバーで、情熱と研究心あふれる人」だと玄選手について話した。

日本に到着後、練習中はもちろん移動中も常にともにいた。「リ・プンフィ―玄静和」のペアは、ダブルスでメダルを逃したものの、団体戦では8勝1敗の成績を収め、優勝に大きく貢献した。

あの時から21年。二人の再会はまだない。南に現政権が発足してからは、北南関係が急激に悪化し、人的往来も接触も遮断されたままだ。

玄専務理事との再会の可能性について聞くと、少し間をおいて口を開いた。

「20年ぶりの再会は笑顔でしたい…。今はそんな状況ではないから、決心するのが難しい問題。笑って会える日が来るなら、彼女は私の人生の中で愛おしい人の一人だし、本当に会いたかったと話すはず。これからスポーツを通じて交流が実現することを願っている。そして、彼女と彼女の家族みんなが健康で幸せであると信じている」

リ書記長は最後に、在日同胞たちにもメッセージを残した。

「障がい者スポーツの国際競技が日本で開催され、そこに参加することができたら、というのが私の願い。私たちは、同胞の応援の中ですばらしい成績を残せると思う。そのような機会があるなら、同胞たちに91年の時の感謝をもう一度伝え、当時の思い出をもっと語り合いたい」

(朝鮮新報)

Facebook にシェア
LINEで送る