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〈独島問題とは何か -下-〉朝鮮侵略過程の領有

日本寄りの研究者、抜け落ちた視点

1905年という時期

「竹島」編入に当時の朝鮮政府は異議を唱えなかったという、日本政府や政府寄りの研究者は1人として当時の両国関係を詳しく析出しようとしない。山ほどの古文献を引張り出して、「竹島」が古来から日本の領土なるを博引旁証している人たちなのになぜなのか。

それは、当時の両国関係を歴史的に直視すれば、日本の朝鮮侵略過程のなかでの「竹島」領有であるからである。

はっきり記憶して欲しい。「竹島」領有の閣議決定は明治38(1905)年1月28日であり、島根県告示とやらは同年2月22日である。この時期はいかなる時期か。

1年前の明治37年2月10日に日本の対ロ宣戦布告があり、その2日前の2月8日、日本は大軍を仁川に上陸させている。この日本軍の圧倒的軍事圧力のもとで2月23日には「韓日議定書」が結ばれる。

「議定書」は6ヵ条からなっているが、その第1条は、韓国政府は日本政府の「忠告を容れる事」とあり、第3条は、日本は韓国の「独立及領土保全を確実に保障する事」、第四条は、日本は「軍略上必要の地点を臨機収用する」とあり、日本は何時でも朝鮮の土地を奪えるようになっていた。そして第5条では、韓国(当時大韓帝国)は日本の承認なしに第3国と条約を結べないようにした、この第1条の「忠告を容れ」る件と、第五条で第3国との条約を制限したことは、実質的保護国化で、翌年11月の乙巳保護条約の「締結」を待たずして、その内実は達せられたといえる。

紙数の関係上、詳説は避けるが、朝鮮は実質保護国化され加えて明治37(1904)年8月22日、いわゆる「韓日新条約」(第1次韓日協約)を強制締結させられ、外交顧問として親日米人スティーブンスを傭聘(ようへい)させられることになる。この時期、大韓帝国の外交権は手も足も動かせないほどに縛りあげられていたのである。こういう歴史的事実を認識したうえで、日本政府と政府寄り研究者は、「竹島」領有告示に異議を唱えなかったから国際法上、有効だったと言い張るつもりなのか。俗っぽく表現すれば「よく言うよ」である。

「盗人たけだけしい」とはこのことであろう。

鬱陵島郡守、朝鮮領主張

また、国際法上の「先占の要件」の関連では今1つ紹介したいことがある。

「竹島」領有告示後の明治39(1906)年3月、島根県の第3部長神西由太郎は、隠岐島司東文輔らを従えて、「竹島」視察を行うが、ついでに鬱陵島に寄り、「鬱陵衙門」の扁額のある政庁に入り、郡守沈興沢と面会し、「竹島」の島根県編入を告げた。沈郡守は「簡単、素朴、頗る太古の風あり」と評されている。この鬱陵島郡守沈興沢が1906年に旧3月5日付で政府に報告書を提出する。

「本郷所属、独島」と始まって、独島が日本領土にされたという内容である。日本政府とその追随者は国際法上の「先占の要件」を満たしていると強弁するが、日本領有の事実をはじめて聞いた鬱陵島郡守は「本郡所属」という明確な認識を持っていたのである。この沈郡守の一片の報告書だけで、日本側のいう「先占の要件」の3つの条件をすべて否定する力を持っているといえる。彼は報告の最後に「照亮されることを務望(望む)」としたが、大韓帝国の外交はすでに保護条約により韓国統監府が置かれ、伊藤博文が韓国統監となり、完全に握られていた。

「侵略」と自民議員

李鍾学氏の資料集は独島問題の歴史的由来を説いたものではなく、それらを前提に今日只今の問題点を浮き彫りにしたものである。この資料集に収録された衆議院、参議院、島根県議会での論議の1部を紹介したい。

1996年2月23日の衆議院運輸委員会で自民党の米田健三議員は独島問題で質問し、「(韓国)外務部が接岸施設の予定を発表」しているとして、「他国を侵して土地を奪いとることを侵略という…一連の韓国の行為は紛れもない侵略である」として独島の現在の在りようは侵略だというのである。

(琴秉洞、朝鮮大学校講師)

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