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〈渡来文化・その美と造形 31〉葛野大堰

葛野大堰は、現在の渡月橋の上流に、洪水の調整、灌漑用水の確保のために、5世紀頃に秦氏集団によって造られた。今も川底には当時の段差が残っている。また、少し下流の松尾大社付近の松室遺跡から、幅約60メート…

〈渡来文化・その美と造形 28〉昆陽池

昆陽池、瑞ヶ池、そして緑ヶ丘の上池・下池など灌漑用の池がある現在の伊丹市は、東の猪名川、西の武庫川に挟まれたなだらかな丘陵地帯で、池が造られるまで、北側では河川の洪水に苦しみ、南側では水不足に悩む地で…

〈渡来文化・その美と造形 27〉新羅善神堂、新羅明神

この堂の祭神は新羅明神である。伝承によると、天安2(858)年に智証大師円珍(814~891年)が唐から帰国する際、暴風にさらされて仏に祈ったところ、船中に1人の老翁が現れ、新羅明神と名乗って、「私を…

〈渡来文化・その美と造形 26〉オンドル

穴太遺跡の「大造り建物」(渡来人の住居)から1キロ南西で温突状遺構が良好な遺存状態で発見された。 オンドルは、現在も朝鮮半島で使われている床暖房のことである。その構造は簡単に説明すると、床下に石を数条…

〈渡来文化・その美と造形 25〉飛鳥寺・飛鳥大仏

仏教が百済から日本に公的に伝えられたのは538(聖王16)年である。 それに伴って、日本最初の本格的寺院、飛鳥寺(法興寺)の建設が587年に企画され、翌年(威徳王35年)百済から僧侶、寺工(大工)、露…

〈渡来文化・その美と造形 24〉朝鮮式山城

百済の滅亡直後、干渉戦に軍隊を送った日本であったが、「白村江(はくすきのえ)の戦い」(663年)に敗れた翌年、新羅と唐からの報復攻撃に備えることに大きな関心が寄せられた。 百済からの〝亡命者〟・憶礼福…

〈渡来文化・その美と造形 23〉猿橋

山梨県大月市に「猿橋」とよばれる橋がある。ゆるいアーチのかかった木製の橋である。相模川の支流、桂川の高さ31メートルの渓谷にかかる橋で、「刎橋」の架橋形式を残す唯一現存する橋である。 猿橋は、両岸の崖…

〈渡来文化・その美と造形 22〉新羅鐘

梵鐘は寺院近隣に時刻を知らせたり、儀式などの行事を人々に知らせるためなどに使われる、寺院の重要な構成部分である。その荘厳で清涼な響きは、聞く人々の六根を清浄するという。 朝鮮でも多くの梵鐘が製作された…