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〈ゆんすんの散歩道20〉冬至に食べたあずき粥

数カ月ぶりにオモニと弟と、ドライブがてら東京近郊の市場にでかけた。 新物のあずきともち米を手に取り、美味しい赤飯が炊けると嬉しそうにしているオモニを見て、「うちの子たち、豆ご飯食べないんだよね」と話す…

〈ゆんすんの散歩道16〉コロナ感染

日本国内の感染状況が過去最多を記録していた7月末、わが家にもついにコロナがやってきた。

〈ゆんすんの散歩道15〉ピーちゃん

冬休みのある日、田舎のハンメの家の玄関先で、ヒヨコがピヨピヨ鳴いていた。ヒヨコと言っても、それは白い毛が生えた、一見ニワトリのようなものだったのだけれど。 聞くと、従姉妹が縁日で買った3羽のうち1羽が…

〈ゆんすんの散歩道14〉人生の転機

6月は私にとって特別な思いがある月である。 1989年6月30日、平壌飛行場に降り立った南朝鮮の大学生、林秀卿さんの名とともに私を記憶する人がいて、30年以上経った最近でも、思いがけないところで「一度…

〈ゆんすんの散歩道13〉文通

初級部3年生の時、クラスで一番仲良しだったトンムが、コッソンイ作文コンクールで1等に選ばれた。「スニが出てるよ、読んでごらん」とオモニから渡された朝鮮新報には、早くに亡くなった彼女のオッパを題材にした…

〈ゆんすんの散歩道12〉教会でのできごと

3月最後の土曜日、私は地元のウリハッキョオモニたちと連れ立って大泉教会へと向かった。東京中高オモニ会元会長の金栄愛さんも一緒だった。教会で催されたのは「オモニから伺う朝鮮学校のおはなし」。集いでは、2…

〈ゆんすんの散歩道11〉苦い思い出

ことばや文字を巡り、私にはいくつかの苦い思い出がある。 初級部時代のことだろうか。ある日、ハルモニの家へ行くと、カセットデッキの側でハルモニが何かを熱心に書いていた。「何書いてるの?」と声をかけると、…

〈ゆんすんの散歩道10〉雪の日

東京にまとまった雪が降った。4年ぶりとのことだが、私にとっては2014年の積雪の方が印象深い。当時1年生だった長男が、「ソンセンニムが雪の日はみんなで遊ぼうと言って、雪遊びしたよ。すっごく楽しかった!…

〈ゆんすんの散歩道9〉障害を学ぶ

縁あって、障害児施設や保育機関、教育委員会などで長年勤めてきた橋場隆さん(臨床発達心理士スーパーバイザー)の講義を聞いた。4日間、約16時間におよぶ講義では、重度心身障害や知的障害、情緒障害のある子ど…

〈ゆんすんの散歩道8〉朝鮮の風習

ひさしぶりに次男がオネショをした。しかも、布団が重なり合った真ん中で。朝からシーツを3枚洗い、大量の洗濯物と布団を干した。 夕方、用事を済ませに実家に寄り、老いた両親にそのことを話すと、二人とも「昔は…

〈ゆんすんの散歩道7〉ごちゃまぜ運動会

10月中旬、ダウン症の次男が利用しているデイサービスの運動会があった。放課後等デイサービスは、障害児専門の民間学童保育のようなもので、彼らの放課後や休日等の居場所となっている。 子どもたちは小学生から…

〈ゆんすんの散歩道6〉友情は海を越えて

朝大卒業直後、アルバイトで貯めたお金で初めての海外旅行をした。行き先はロサンゼルス。 高3のとき、初めての祖国訪問で、私は平壌祭典に参加した。ウリナラの人と出会うのも初めてだったが、中国、ソ連、米国、…

〈ゆんすんの散歩道5〉ハンメの肖像

子どもの頃、夏休みはいつまでも続くものと思っていた。田舎のハンメの家で遊び、親戚の家を転々としても、夏休みは終わらなかった。 共働きの両親のもと、いわゆる保育園の待機児童だった私は、生後間もなく田舎の…

〈ゆんすんの散歩道4〉朝鮮戦争の記憶

7月は私の生まれ月だ。なんだかあっという間に半世紀に手が届く年になってしまった。 帝王切開で私を産んだオモニは、27日に手術をした。朝鮮の「戦勝記念日」である。

〈ゆんすんの散歩道3〉アンニョンハッキョ

ダウン症の次男は、朝鮮学校のことを「アンニョンハッキョ」と呼んでいる。 彼にとって最も耳にすることが多く印象的なのが「アンニョン」という響きなのだろう。金曜日の昼下がり、彼が通う日本学校の近くで下校を…

〈ゆんすんの散歩道2〉コスモス学級

ウリハッキョの校長との面談を通して、私が次男のダブルスクール先に選んだ支援学級の決め手は、そこに息子と同じダウン症の子どもが複数いたことと、「ウリハッキョのような雰囲気」があったためだった。

〈ゆんすんの散歩道 1〉ふたつの入学式

桜が散り、ツヅジの花が咲き誇っている。 3年前の春、私はふたつの入学式に参加した。初級部と中級部ではない。朝鮮学校と日本学校の式にである。