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〈朝鮮歴史人物〉唐を震え上がらせた淵蓋蘇文(3)

暫らくして、淵太祚も世を去った。 淵蓋蘇文はモランを呼び寄せ、妻に迎えて夢のような日々を送ったが、常に心は、国を正そうとする一つの思いで高鳴っていた。国の情勢は依然として乱れていたためである。 618…

〈朝鮮歴史人物〉高句麗を輝かせた曇徴(5)

壁画は細い線で輪郭を描き、薄緑色、藍色、薄赤色、濃い灰色などを調和させながら塗ることにより、その華麗さは例えようもなかった。 一気に引いた太くて濃い線、細くて柔らかな線で性格を生かして運動感を引き出さ…

〈朝鮮歴史人物〉高句麗を輝かせた曇徴(4)

生まれ育った故郷とその地に対する懐かしさで夜も眠れないでいたある日の夜、曇徴はすでに精製しておいた色彩の材料を一つひとつ試したうえで、努めて自分を落ち着かせて壁面に向き合った。しかし、依然として気持ち…

〈朝鮮歴史人物〉高句麗を輝かせた曇徴(3)

曇徴は全てを最初から始めた。まず、質の高い墨を準備するよう手配しそのための技術的な指導を行う一方、自ら顔料を一つずつ製造した。そしてまた、日本では何処にも見られない非常に珍しい紙も作り上げた。 それだ…

〈朝鮮歴史人物〉高句麗を輝かせた曇徴(2)

百済の学者、王仁は日本に渡り、文字を知らない当地の人々に初めて「千字文」を教えたし、高句麗の僧で医者である慧慈は大和王権の執権者、聖徳太子の師として活動したとされる。 曇徴も日本からのたび重なる招請を…

〈朝鮮歴史人物〉高句麗を輝かせた曇徴(1)

埠頭は旅立つ者、見送る者でごった返していた。 曇徴は、多くの僧侶たちに守られながら黙々と埠頭へ入っていった。周囲の喧騒などは気にもとめず、遠い海の彼方を眺めながら歩く彼の足取りはどことなく重かった。 …

〈朝鮮歴史人物〉隋の大軍を撃退した乙支文徳(9)

二人の息子は、自分たちがややもすれば祖国を裏切るところだった恥辱に対する悲痛な思いを胸に、夜明けに母を訪ねて高句麗の陣営へと移ってきた。 息子たちは母の前に伏して許しを請い、乙支文徳を訪ねて自らの罪を…

〈朝鮮歴史人物〉隋の大軍を撃退した乙支文徳(8)

…元々、鹿足夫人には二人の息子がいたが、彼らも母に似て両足が鹿の足とそっくりであった。 ある日のこと、その子たちが外で遊んでいると、貴族の子がしきりにからかうので、なぐったところ、そのまま死んでしまっ…