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〈特集・ウリハッキョの今〉東京第4初中/沿革

「56年帰国者」と大村収容所

第一次帰国船が新潟から出航する以前に、朝鮮民主主義共和国に帰国した在日朝鮮人がいた。 1955年9月、総聯は日本政府と日本赤十字社との初の公式接触で在日朝鮮人帰国問題に関する協力を要請した。対象は、朝…

ジュネーブ会議の決裂と戦争の継続

1953年7月27日に締結された朝鮮停戦協定第4条60項は、「3カ月以内にそれぞれの代表を派遣し、一級高い政治会談を招集」して「外国軍隊の撤退と朝鮮問題の平和的解決の問題を協議」すると規定している。

単独講和と日米安保

1951年9月8日、サンフランシスコ講和会議の結果として締結された条約には、第二次世界大戦の連合国の内、48カ国が署名したが、その大半は、日本と直接交戦していない国々であった。日帝の敗亡に貢献した中国…

米国がねつ造した「テロ関与説」

赤軍派の一部メンバー(柴田泰弘、田中義三)は、80〜90年代に朝鮮を出国し、日本や外国で拘束され、裁判で有罪判決を受けた。一人は刑期満了で出所し、もう一人は獄中で死亡した。

日中国交正常化と北南等距離政策

1972年9月29日、日本は中華人民共和国と国交を樹立した。日本は日華平和条約(1952)締結以来、中国国民政府(台湾)と国交を結んでいたが、周恩来首相と田中角栄首相が署名した日中共同声明で日本は中華…

軍事政権から受けた免罪符

日韓会談は、1951年から65年​までの14年間に7回にわたって行われた。51年10月20日、東京にある連合軍最高司令部(SCAP)で外交局長シーボルトの立会のもと、日本と南朝鮮の予備交渉が始まった事…

「中立化統一論」と南北学生会談

4.19以降、南朝鮮では、学生、知識人層を中心に「中立化統一論」が広がった。米ソ冷戦から脱却し、朝鮮半島を永世中立化する方法で統一するという主張である。