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〈朝鮮歴史人物〉高句麗を輝かせた曇徴(2)

百済の学者、王仁は日本に渡り、文字を知らない当地の人々に初めて「千字文」を教えたし、高句麗の僧で医者である慧慈は大和王権の執権者、聖徳太子の師として活動したとされる。 曇徴も日本からのたび重なる招請を…

〈朝鮮歴史人物〉高句麗を輝かせた曇徴(1)

埠頭は旅立つ者、見送る者でごった返していた。 曇徴は、多くの僧侶たちに守られながら黙々と埠頭へ入っていった。周囲の喧騒などは気にもとめず、遠い海の彼方を眺めながら歩く彼の足取りはどことなく重かった。 …

〈朝鮮歴史人物〉隋の大軍を撃退した乙支文徳(9)

二人の息子は、自分たちがややもすれば祖国を裏切るところだった恥辱に対する悲痛な思いを胸に、夜明けに母を訪ねて高句麗の陣営へと移ってきた。 息子たちは母の前に伏して許しを請い、乙支文徳を訪ねて自らの罪を…

〈朝鮮歴史人物〉隋の大軍を撃退した乙支文徳(8)

…元々、鹿足夫人には二人の息子がいたが、彼らも母に似て両足が鹿の足とそっくりであった。 ある日のこと、その子たちが外で遊んでいると、貴族の子がしきりにからかうので、なぐったところ、そのまま死んでしまっ…

〈朝鮮歴史人物〉隋の大軍を撃退した乙支文徳(7)

「なりません。虎穴に、しかも単身で乗り込んでいくなどあってはならないことであります」 それでも、乙支文徳は泰然自若だった。 彼は、敵陣に入った時から陣中を注意深く探った。

〈朝鮮歴史人物〉隋の大軍を撃退した乙支文徳(6)

陸軍の到着だけをじりじりしながら待っていた敵の水軍大将、來護児は自分たちの水軍だけでも鳳皇城など造作ないと大言壮語しながら、4万の精鋭軍を選抜して攻め込んで来た。しかし、敵は高句麗軍の誘引戦術に嵌って…

〈朝鮮歴史人物〉隋の大軍を撃退した乙支文徳(5)

隋軍との最初の戦闘は612年3月、武厲邏(大凌河の東側)で行われた。 国の西部国境前哨基地である武厲邏城を守っていた高句麗軍は隋の先頭部隊に大打撃を与え、基本防御線である遼河の東側へと撤収した。 隋軍…

〈在日朝鮮人関係資料室〉(1) 在日同胞1、2世の血と汗と涙の結晶

1万2千件の貴重な史料 3つの特色 在日同胞の生活と運動に関する資料を収集保存するための専門機関である「在日朝鮮人関係資料室」(以下、「資料室」)が、朝鮮大学校朝鮮問題研究センター内に設立され早や1年…

〈歴史×状況×言葉 33〉秋田雨雀

自然人をころし 人人をころす―関東大震災時の朝鮮人虐殺に際し、作家秋田雨雀はこううたった。それからちょうど90年を迎える今日、とりわけ「3.11」後の日本社会の状況を生きている私たちは、あらためて戦慄…

〈朝鮮歴史人物〉隋の大軍を撃退した乙支文徳(4)

そして、特に彼は軍隊が強くなるには上下が心を合わせるべきでると主張して、兵士たちをこよなく大事にした。兵士たちの話を軽視することなく、常に彼らが訓練に熱中できるよう最善を尽くした。 高句麗の朝廷では、…