〈続・朝鮮史を駆け抜けた女性たち 12〉元帝国最後の皇后/奇順女
2010年01月15日 00:00 文化・歴史憎悪と恨を超えて
高麗出身の皇后
奇順女、奇皇后である。元帝国末の30余年間、順帝(1320~1370)の妃として元朝廷の実権を握った彼女は高麗出身であった。官吏劉基は彼女を「杏花のような白い顔、桃のような紅い頬、柳のような腰」(杏臉桃腮弱柳腰)と書いている。「元史」には次のような記述がある。「奇皇后は時間があると『女孝経』や歴史書をひもとき、歴代皇后の徳に習い、全国から送られてくる贈り物の中でも特に貴重なものは廟に祭祀を行った後で食した」。
奇皇后は聡明で美しく、積極的で野心家、洞察力に優れ、どんな困難の前でもあきらめない強い意志を持った自立した女性であったらしい。彼女は高麗出身の宦官たちの協力のもと、「高麗様」「高麗風」と呼ばれた生活様式や風俗を元に広め、皇后になるや「政治資金」を調達することに乗り出す。皇后の資金調達機関を改変し「資政院」を設置、高麗出身の宦官・高龍普を資政院使に任命、資政院は奇皇后を軸に高麗出身の宦官たちや官吏たちをも取り込み、「資政院党」と呼ばれる一大政治勢力を形成するに至る。政敵の甥を流刑から解き、高位の官職を与えるなどバランス感覚にも優れていた。同郷である宦官・朴不花を軍の最高位同知樞密院事に任命、事実上の軍事統率権をも掌握した。また息子アユシリダラを皇太子にすることに成功、安定的な権力基盤を築いていった。
また、1358年の大飢饉の際には官庁に命じ救済のための粥を用意させ、数十万人に達する餓死者のため資政院には金銀財宝や布帛、穀物などを供出させ、埋葬および葬式の手配をしたと「元史」には詳しい。「元史」にはまた、「(奇皇后の夫である)順帝は政治に怠慢」と記されている。