〈人物で見る朝鮮科学史 67〉壬辰倭乱とその副産物(2)
2008年10月03日 00:00 歴史許浚が書いた「東医宝鑑」
壬辰倭乱の戦火のなか避難する宣祖と行動をともにし、その相談相手となっていた一人の医者がいた。後に「東医宝鑑」を著す許浚である。
彼は、その道中で人々の惨状を目の当たりにして、優れた医学書の必要性を痛感したという。もっとも、これは推測の域を出ない話なのだが、ただ、王が許浚らに医学書の著述を命じたのが1596年のことであるから、この戦争によって医学書の必要性が高まったのは事実だろう。当初、許浚は何人かの学者とともに作業に着手するが、1598年の秀吉軍の再度の侵攻によって学者たちは散らばり、その後は許浚一人がその作業を行う。
許浚は両班家系の出身であるが、庶子に生まれ本来ならば官職の道を閉ざされていたが、医師として早くから頭角を表わし宣祖の侍医となった。宣祖は壬辰倭乱時の功績を高く評価して1604年に彼に官位を与え、1606年には医学上の功績を認めて「陽平君」という称号とともに文官第一級の官位を与える。