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〈人物で見る朝鮮科学史 33〉高麗の科学文化(6)

2007年06月23日 00:00 歴史

綿の栽培で功績挙げた文益漸

文益漸が最初に栽培を行った場所は史跡に指定されている

文益漸が最初に栽培を行った場所は史跡に指定されている

14世紀まで朝鮮の衣服の主流は麻であったが、保温性の優れた綿によって衣服革命をもたらした人、それが文益漸である。1329年に貧しい両班の家に生まれた文益漸は、農業に従事していた父・文淑宣から学問を学び、32歳の時に科挙(官吏登用試験)に及第し文官の道を歩み始めた。そして、1363年に元への使臣の一人に抜擢されるのであるが、これが彼の運命を大きく変えることになる。

当時、高麗の恭愍王は独自路線を歩み親元勢力を排除していた。そこで、元では恭愍王の叔父に当たる徳興君を王に押し立てようとしたのだが、その争いに文益漸も巻き込まれたのである。一説によれば、その加担を拒んだ文益漸は中国雲南地方に送られ、そこで初めて綿花を見たという。というのも、綿の原産地はインドで地理的に近い雲南では綿の栽培が盛んに行われていたからである。そして、その種を持ち帰ることを決心するが、それは厳しく禁じられており、種を筆の筒に隠したという有名なエピソードが生まれた。ところが帰国した文益漸は、今度は高麗政府からその策略に加担したことを疑われ、官職を解かれて故郷に戻る。実際に文益漸が雲南地方に送られたかどうかは定かではないが、帰国した年に故郷の地で舅である鄭天益と綿の栽培を始めたことから、後半の話は事実に近いようである。

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