〈遺骨は叫ぶ 22〉愛媛・住友鉱業別子鉱業所
2009年01月27日 00:00 歴史転落や転倒、発破で1年余に51人が死亡/「半島人」と蔑み、空腹で自殺者も
アジア太平洋戦争の時は、井華鉱業(住友鉱業)別子鉱業所(愛媛県新居郡角野町立山川・現新居浜市)は、日本でも最大規模の銅生産を誇っていた。発見されたのは元禄と古く、泉屋とその後身である住友の手で開発されたが、ここで産出した銅は江戸時代は長崎出島の貿易の決済に使われた。また、明治以降は、日本の侵略戦争を支えてきた。1943年に軍需会社法の適用を受け銅の増産に励んだ。だが、労働力は慢性的に不足し、勤労報国隊員、学徒動員、女子挺身隊員などを次々と入れたがそれでも足りず、朝鮮人連行者を働かせることになった。
米軍が日本占領時代に集めて持ち帰り、マイクロフィルムにして日本に帰ってきた資料「移入朝鮮人労務者状況調」(中央協和会)には、1942年6月末までに、井華鉱業別子鉱業所に700人、別子鉱業所筏津作業所(旧別子山村)に236人来たことが記されている。別子鉱業所には、北海道の住友鴻之舞鉱山から多くの朝鮮人が移送されている。