公式アカウント

〈遺骨は叫ぶ 11〉秋田・吉乃鉱山・発破で生き埋め、ダムに飛び込む人も

2008年02月25日 00:00 歴史

鉱さいダム工事中、相当な人骨を発見

山の斜面に残る選鉱場跡

山の斜面に残る選鉱場跡

墓石が並ぶ上吉野集落の隣は、草が茂る平地に見えた。しかし、歩くと高低があり、高く土盛りした上に平たい石が置かれている。朝鮮人の墓だった。

案内してくれた佐々木一郎の家は、共同墓地の管理人を代々やってきた。

「いまは私がやっているが、戦時中は、祖父がやっていた。この墓地に吉乃鉱山で死んだ朝鮮人を埋めていた。私も子どもの時に何度か見ているが、朝鮮人の時は、二人が棺桶を担ぎ、鉱山の職員がついてきた。粗末な棺桶は、中が丸見えで、裸同然の人が素足のまま入っていた。役場の埋葬許可書も持ってこなかったな。埋めると、川から拾ってきた石を上に乗せるだけで、彼岸とかお盆に何もしなかった。盛り土は70近くある」

70人近い朝鮮人の死者を出した吉乃鉱山(秋田県横手市増田町)は、1720年頃に発見され、1915年に設立した大日本鉱業会社の傘下に入り、巽鉱場、水力発電所及び鉄索を設けて本格的に開発され、その鉱石は県北の発盛精錬所に送られた。また、露天掘りも行い、鉱山額は増加した。「吉野地区には、11の組飯場が出現し、周辺農村からの労務者を含め、3000人近くを集めたという。その中には、200名ほどの朝鮮人も含まれていた」(斎藤実則「吉乃鉱山」誌)とあり、大正時代に多くの朝鮮人が来ていた。この朝鮮人は、どこから来たのか、どこに住んでどんな仕事をしたのかは資料もないし、知っている人もいない。

Facebook にシェア
LINEで送る