〈遺骨は叫ぶ 4〉長崎・端島・海の下の炭鉱、酸欠、落盤、逃亡しても水死
2007年06月05日 00:00 歴史「軍隊なんか問題にならん過酷なリンチ」
長崎港の沖合に浮かぶ島々の中でも、端島(長崎市高島町)は、周囲わずか1.2キロメートルと小さい。島全体を高さ10メートルほどのコンクリートの防波堤が囲み、所狭しと高低のビルが林立している。外から見ると、軍艦「土佐」に似ているため「軍艦島」とも呼ばれてきた。
この端島では、石炭が掘られ、最盛期の1945年には、5300人の人口が居たというが、閉山になってからは、次々と人が去り、いまは無人の島になっている。今年の春、上陸が禁止になっているので、長崎港から端島を一周する船に乗った。廃墟となった建物の中で、朝鮮人や中国人連行者、そして日本人坑夫たちが重労働をさせられ、虐待され、虐殺された人たちの声を聞きたいと思ったが、波頭が高くなって船が揺れ、鋭い風の音が胸に刺さった。
端島で石炭が見つかったのは、1810年頃に近隣の漁民が発見したと伝わっている。その後、佐賀藩深堀領主鍋島氏が、1883年に採掘を始めたが、この端島を1890年に三菱鉱業が、金10万円で買収した。三菱鉱業は、深層部開発に着手し、当時としては驚異的な深さ、199メートルの堅坑の掘削に成功した。その後も次々と掘り下げ工事が進められたが、「やがて大正、昭和と日本の近代化につれて、増大する石炭需要に応じるため、端島炭坑は、近代的採炭機械を導入して、増産に努めたのである」(「原爆と朝鮮人」)。