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〈人物で見る日本の朝鮮観〉志賀重昴

2004年06月02日 00:00 文化・歴史

志賀重昴(1863~1927)は地理学者、政治家、ジャーナリスト、教育家という多面的な顔を持った国粋主義者として世に知られている。彼のアジア問題、朝鮮に関する言及は少なくなく、彼の言説の世人に与えた影響、また甚大なものがあった。

父、重職は三河岡崎藩士で、藩校の儒学教師であったが、重昂の幼時、不慮の死を遂げたので、母の実家で養育された。長じて攻玉社、東大予備門に進み、1880年(明治13年)9月、転じて札幌農学校に入り、ここを卒業する。志賀が世人に名を知られるのは、1887年(明治20年)3月に「南洋時事」を刊行した時からである。その前年、志賀は軍艦「筑波」に便乗し、東南アジア、南洋諸島、濠洲、サモア、ハワイ等を経て帰国しているが、そこで植民地経営の実情を視察して、大いに憤慨する。そして、このとき、清との連帯の姿勢も示す。その志賀が、1888年(明治21年)4月、三宅雪嶺、杉浦重剛、井上円了らと政教社を作り、雑誌「日本人」を創刊するが、その主張するところは「国粋保存旨義」である。

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