〈人物で見る日本の朝鮮観〉佐田白茅
2004年02月04日 00:00 文化・歴史明治初年、政権の中枢で征韓論を首唱したのは木戸孝允であるが、この征韓論をいわば「草の根」の段階にまで押し拡げて、日本中を征韓論で熱狂させる役割を果したのが佐田白茅(さだはくぼう、名は素一郎、1832~1907)である。佐田は九州久留米藩(有馬氏)士で、若い頃江戸に出て、5、6年昌平黌に学んだ。後、長州の尊攘論に加担した嫌疑で5年程、久留米藩の獄舎に幽囚される。明治維新となってその勤皇ぶりが買われ、新政府に出仕することになった。白茅は早くも明治初年に征韓建白書を政府に出したという。「朝鮮は応神天皇以来、(朝貢の)義務の存する国柄であるから、維新の勢力に乗じ、速かに手を容るるが宜しい」(「征韓論の旧夢談」)というものである。さらに翌2年にも同趣旨の第2回目の建白書を出した。これが利いたのか外務省も同じ考えであったのだろうか同年10月、太政官より、「朝鮮国へ出張仰せつけ候こと」という辞令を受けた。