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〈続・遥かなる高麗への旅・朝鮮史上初の統一国家 4〉分断都市、共存・協力都市、そして古都の3つの顔

2008年07月30日 00:00 歴史

順調に伸びる工業地区、観光事業

南側が軍事境界線沿いに築いたコンクリート障壁

南側が軍事境界線沿いに築いたコンクリート障壁

約500年間、統一国家・高麗の首都として繁栄した開城は、1945年8月、朝鮮半島を不法に植民地支配した日本からの解放後、米軍によって引かれた北緯38度線によって北と南の二つの地域に分けられ、江原道などと共に分断の象徴の地として広くその名が刻まれるようになった。50年6月に勃発した朝鮮戦争以降、全地域が北に組み込まれた。

その開城市の中心部から東へ8キロの地点に位置するのが軍事境界線上の村、板門店である。ここで53年7月、米国との間で朝鮮戦争の停戦協定が結ばれた。その後も軍事停戦委員会や北南間の重要な会談、接触が板門店を舞台に行われてきた。

停戦協定による軍事境界線は、38度線を上下しながら240キロにわたって朝鮮半島を横断する。停戦ラインから北と南それぞれ2キロにいっさいの軍事装備、兵員の搬入を禁止した非武装地帯(DNZ)が設けられた。ちなみに南側は、76年から開始されたチーム・スピリット軍事演習に代表される米国の対北先制攻撃計画の下、78年6月から89年12月にかけて軍事境界線沿いに高さ7~8メートル、底辺の幅10~12メートル、上部の幅3~7メートルの巨大なコンクリート障壁を築いている。

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