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〈月間平壌レポート 1月〉リーダーの演説に触発された「統一談議」

2015年02月05日 13:57 共和国

“70年の節目に転機を”

【平壌発=金志永】「祖国解放70年、分断70年」-金正恩第1書記は元旦に発表した新年の辞で民族史における2015年の重要性を強調し、統一の新局面を切り開くことを訴えた。「北南最高位級会談の開催」についても言及した。平壌で年始のあいさつを交わした人々は、節目の年に歴史の大きな転機をつくることへの期待感を語っていた。

1月20日に行われた政府、政党、団体連合会議(朝鮮中央通信=朝鮮通信)

1月20日に行われた政府、政党、団体連合会議(朝鮮中央通信=朝鮮通信)

「主席の念願」、専属タイピストの想い

今年90歳の呉賛福さんは、第1書記の新年の辞をテレビで視聴しながら、「凱旋演説する金日成主席の姿」を思い起こしたという。呉さんは祖国解放直後から、主席の専属タイピストを務めた。

平安南道・粛川郡の貧しい農家に生まれた呉さんは14歳の時に平壌で働き始めた。1945年の8月は、日窒コンツェルンが運営する鉱業会社のタイピストだった。日本敗戦の日は、会社の事務所にあるラジオで天皇の「玉音放送」を聞き、泣き崩れる日本人の姿を見たという。

呉賛福さん

呉賛福さん

一方、同胞は解放の喜びに沸いた。呉さんは、親友から「日帝を打倒するために銃を取り戦った人たちの職場」で働かないかと誘いを受け、平壌の中心部、解放山の麓にある建物(後の党中央組織委員会庁舎)に向かった。そこで背が高く、若さに満ち溢れた人物に紹介されたが、呉さんは自分が「抗日の英雄」と面談したことを知らなぬままタイピストとして働き始めた。当時は「日本を打ち負かした金日成将軍は白い髭をはやした百戦老将」に違いないと考えていたという。

「数日後、副官から事実を知らされたのです。主席はいつも多忙で、重要会議の報告などは夜中に執筆されることが多かった。私が朝早く出勤し、タイプしておいた書類を持って主席の執務室に行くと机の上に新たな原稿が積まれているのです。歴史的な凱旋演説の原稿もそのように夜を徹して書かれました」

解放の年の10月14日、牡丹峰公設運動場(現在の金日成競技場)で金日成将軍の祖国凱旋を歓迎する平壌市民大会が行われた。会場は歓喜に包まれた。呉さんは、主席や幹部たちが並ぶひな壇の近くに立っていた。運動場に入れず、演説を行う将軍を一目見ようと牡丹峰の樹木に登る市民も多かった。牡丹峰が「チョゴリ姿の人々で雪が降り積もったように真っ白」になり、「演説する将軍も、高まる感情を抑えきれない様子」だったという。

あれから70年が経った。長きに渡り主席の傍らで仕事をした呉さんが、流れた年月を振り返り、最も心苦しいことは解放と共に始まった祖国の分断が70年も続いてしまったことだ。主席が分断線の向こうにある南の地を踏み、南の同胞に向かって演説することはなかった。

「祖国統一は、主席の生涯の願いでした」 

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