【寄稿】演劇「歌姫クロニクル」を観て/高演義
2014年07月03日 10:56 文化 民族教育在日朝鮮人のたたかい方について
6月28日、私は雨の中を、オープンキャンパスということで朝鮮大学校へ出かけていった。お目当ては、コリアン・ミュージカル「歌姫クロニクル」だ。これまで都内で何度か機会があったが、そのつど事情があって観ることができなかった。そして、きょうである。朝大の講堂。実に熱気に溢れていた。熱気の源は、なんと、各級学校の幼い生徒たちだった。会場が、2階席まで完全に埋った。へぇー、こんなに沢山のウリハッキョの子らがいたのだ、と改めて喜びの胸を抱きしめた。
やがて、幕があく。
ドラマが始まる。在日のドラマが……。
観客の目前に展開される風景は、いまだ突破できない日本の支配網の中での、新しい世代に引き継がれる民族の矛盾と悩み、葛藤と対立の連続。瞬間、私は己の若いころのよく似た懊悩を思い起こし、そして、そっと涙した。
今日的かつ日本的なユーモアをも交えながら(そのたびに観客席から沸き起こる福々しい笑い声にわが精神は大いに救われながら)、舞台は次第に有無を言わせぬ問いかけを次々と投げかける。民族であることの過酷さ、在日であることの辛さ。特に、自虐的過ぎるのではと思えるくらいのきつい同胞糾弾、ウリハッキョ温室論――かつて輝いていたナビ・アンド・パルチザンというバンドの再生復活を、今、実現できない、同胞内部の、挫折し弱体化した、そう、たたかう心を失ってしまった人々に、この舞台は鋭い刃を向けていると思う。私はこうした内部告発的な表現を決して否定しない。なぜならそれはわが陣営を一層前進させるエネルギーであるから。
――私たちはただイジメられ叩かれるばかりの存在でなく、それらに反発し有効にたたかうすべを心得た人間でなくてはならない。抵抗することを忘れてはならない。そもそも歴史というものが光と影との複合物であるとするなら、希望と絶望、前進と後退、勇気と萎縮がない交ぜになったものが私たち在日の生活と運動の歴史そのものだ。今たとえ影の中にあるとしてもかならずや光を見つけださずにおかない、屈服を知らない強靭な意志をこそ! それは野蛮に対する人間性の勝利を意味するだろう。