〈それぞれの四季〉 気づき/高明愛
2014年03月03日 09:00 文化・歴史朝鮮学校を卒業して、日本の大学に入学した。当初は期待半分、不安半分であったが、何人か友だちもできた。授業、内容も面白く、それなりに楽しいキャンパスライフを送っていた。
しかし、そんな楽しいひと時のなかでも、嫌気がさすようなことが多々あった。特に、居づらさを感じざるを得ないのが、W杯シーズンなどだ。朝・日戦や韓日戦になったとしても「どっちを応援するの?」と聞かれることもなく、勝つか負けるかの話。「どこが、誰が」を話さなくても、話題の主語は「日本」に決まっている。このような話が開催期間中何度も繰り返されることにうんざりした。
振り返ると、そのような場面では朝鮮、南朝鮮どちらかを応援したいというより、「とにかく日本には勝ってほしくない」と思っていた。それは、幼い頃から聞いてきた先人たちの話や学校で学んだ歴史、自分自身が体験してきた差別などを通して、自然にわきあがった感情だろう。だからといって、直接目の前の友だちには言えなかった。
それを考えると、大学時代に私が抱えていた不安は、「朝鮮人の私を無視しないだろうか」というものだったと思う。だから、嫌だなと思っても強く主張することもできずに、その場しのぎの言葉をならべてやりすごしてきたのかもしれない。まずは自分自身がどう在りたいかということを考え、主張することが大切だと気づいた。(留学同京都)