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モニカ・フェルトンとWIDFの朝鮮戦争真相調査団(中)

2012年04月25日 10:52 歴史

アジア現代女性史研究会の藤目ゆきさんに聞く

国際女性調査団は1951年5月16日~27日まで、朝鮮で活動した。一行の旅程は次のようであった。

  • 5月16日(木) 新義州の文化センターにて新義州市長のあいさつ。新義州泊
  • 17日(金) 新義州で戦災孤児施設・市内の視察 平壌近郊の「本部」へ移動
  • 18日(土) 新義州に関する報告書に全員が署名
  • 19日(月) 延命寺跡や平壌郊外を視察
  • 20日(火) 平壌に関する報告書に全員が署名
  • 22日(水) 21人が4グループに分かれて、黄海道、平安南道、江原道、慈江道の視察に出発。モニカ・フェルトンは黄海道のグループに参加。
  • 26・27日(日、月) 各グループと全体の報告書作成と署名

図1『私たちは弾劾する』

「ナチス以上の虐殺」と報告

藤目さんの調査によれば、訪朝中の移動・宿泊の手配や土地案内は、朝鮮民主女性同盟が行い、調査団の拠点として使える施設が平壌から15マイルの場所に用意された。調査団は、まず、新義州と平壌に関する報告書を5月18日と21日にまとめている。そのあと、各グループが調査を終えると、全員でその結果を共有化し、グループごとに署名した報告文を一つの報告書にまとめあげた。こうして作成されたのが報告書「朝鮮:私たちは弾劾する。-1951年5月16日~27日の朝鮮におけるWIDF委員会報告」である。

この報告書によれば、調査団は新義州に到着して以来、訪問したどの地域でも都市や町や村がことごとく破壊され、廃墟となっている有様を見て慄然とした。1907年のハーグ条約は、非軍事目標の無差別破壊を禁止している。しかし、調査団は訪れた場所すべてにおいて、爆撃を受けた病院や学校、一般家屋、田園や田園地帯にある寺院などの残骸をその目で見ることになった。空爆は調査団の移動中も行われており、「灰の塊になってしまった町・生き残った住民が防空壕の中に住む他ない町にさえ、なお爆撃は続いていた」

団員たちは瓦礫を踏み込み、廃墟をまわって被災状況を調査し朝鮮民主女性同盟や人民委員会のメンバーの報告、一般住民による証言に耳を傾けた。多数の住民が低空からの機銃掃射による住民殺害、ナパーム弾や時限爆弾といった新兵器の使用、レイプや拷問、村の焼き討ち集団虐殺といった米韓軍の占領下で行われた残虐行為を訴えた。調査団の車は旅行中しばしば途中の村々の住民に呼び止められ、村人たちから米韓軍から受けた被害の実態を詳しく聞かされた。調査団が来ていると知って、自身や家族の受難を訴えるために駆けつけるたくさんの人たち。ひどく興奮して、泣きながら調査団員の手や着物をにぎりしめる女性たちもいた。群集が調査団を取り巻いて、話を聞くように求め、拷問によって受けた傷を見せ、虐待を受けたことや近親が殺されたことを語った。調査団はこれらの話を聞き取っただけでなく、占領下に獄舎として用いられた建物、獄舎に残された血痕や拷ナチス問道具、井戸や穴のなかに投棄された惨殺遺体、多くの人々の体に残る拷問の傷跡を自分の目で見た

こうした調査を通じて調査団が達した結論は次のとおりである。

「米軍や李承晩軍が一時占領した地域では、占領期間中に数十万の市民、老人から子どもまでまじえた家族の全部が、拷問され、打ち殺され、焼かれ、生き埋めにされた。そのほか、数千数万人は、せりあうような監獄のなかで、飢えと寒さで死んでいった。これらの人々は、これらの大衆的傲慢と大衆的虐殺は、ヒトラー・ナチスが、その一時占領したヨーロッパでやった以上のものである」

この結論は、ナチス・ドイツのファシズムを生き延びたヨーロッパの経験を前提として書かれたものであり、いかに調査団たちが滞在中に見聞した朝鮮戦争の実相に激しい衝撃を受けたかがわかる、と藤目さんは指摘する。

「文明の破滅」の予兆

この調査団のメンバーとして活動したモニカ自身は、どのように感じていたのだろうか。

藤目さんによれば、モニカはこの調査によって「文明の破滅」という言葉の真の意味を理解するようになったと書いている。そして、それは東西冷戦の帰趨によって世界が導きかねない破滅の予兆でもあった。訪朝の全過程を通して、朝鮮における虐殺と蛮行に対して英国の一般市民にも責任があるという意識はひとときも消えなかった。空襲警報や爆音、女性や子どもの悲鳴、累々と重なる死体の山といった戦禍の記憶は、その後、繰り返し悪夢となって蘇り、モニカを苛むこととなった。

藤目さんは、モニカの心を揺り動かし、いかに難しいことであろうとも世界にこの真実を伝えなければならないとモニカに決意させたのは、そのような戦争の実態であり、祖国の復興・生活の再建のために苦闘する朝鮮の人々との出会いであったと見る。

調査団は訪れた各地で、住民たちから国連軍占領下の悲惨で苦痛と恐怖に満ちた経験を聞いた。国連軍参加国から来たメンバーをふくむ調査団に対して敵意や反感を見せず、遠来の友を迎える態度で好意的に接して、真実を世界に伝えてほしいという彼らの真摯な態度は、モニカを含む調査団メンバーに深い感銘を与えた。だが、あるときはこんなことがあった。モニカが聞き取りをした女性たちの中には、「英国人には心がないの? 英国には子どもがいないの? 自分の目の前で殺された子どもを殺された女の気持ちが分からないの? 」

黄海道を視察した調査団員がそれぞれの見聞を報告しあっている時に、このできごとを報告しながらモニカは、涙がこぼれるのを抑えることができなかった。

そのあとに開かれた黄海道グループの解散会で、調査団は朝鮮の女性たちからの記念品として銀の箸とスプーンを贈られた。朝鮮には結婚に際して夫から妻に永遠のシンボルとして贈られるという習慣がある。朝鮮民主女性同盟の代表はこうスピーチした。

「友人のみなさん。みなさんにプレゼントするのにこれ以上のものはないと思ったのです。私たちは皆さんに、特に、英国からのゲストに、この贈り物は両国の民衆同士の友情は永遠のものだというシンボルだと申し上げたいと思います」

英国が朝鮮に派兵し、英国兵が占領下で民衆を虐殺するという蛮行に加担していようとも、平和を希求する女性たちの友情と連帯は永久に続くという朝鮮女性たちのメッセージであった。この出会いは、朝鮮の戦渦を世界に知らせようとするモニカにあつい勇気を与えるものとなった、と藤目さんは語る。(粉)

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