〈特集・ウリハッキョの今〉東北初中/東北同胞社会の“セッピョル”として
2025年12月25日 09:00 民族教育
現在の校舎(2015年落成)
1965年4月5日、宮城県仙台市太白区に位置する八木山の大自然に囲まれた広大な土地に、東北地方初の朝鮮学校が開校した。東北初中は大地震の被災などあらゆる困難を乗り越え、延べ4394人の卒業生を輩出し、今年で創立60周年の節目を迎えた。
愛国の一心で

学校建設当時の写真
八木山に建った東北初中は、東北地方の同胞たちにとって待望の朝鮮学校だった。
1945年8月15日の祖国解放後、各地では次々と朝鮮学校が創立した。東北地方でも国語講習所や夜間学校が各所で運営されたが、朝鮮学校は開校されなかった。同胞たちは民族教育を受けさせたい一心で、東京や茨城など他の朝鮮学校へ子どもを送った。
「東北地方にもウリハッキョがあれば」
東北の総聯組織は、東北同胞たちの願望が年々強まる中、総聯第7回全体大会(64年5月)の方針に基づいて東北地方に朝鮮学校を建てることを決めた。その後、一世同胞を中心に学校建設委員会が発足。力と知恵、お金が結集され、大衆運動として建設事業が目まぐるしく推し進められた。

建設当時の学校
総聯宮城県本部の趙丁来副委員長は「建設委員会の事務局を担当した義理の父から聞いた話では、県庁と八木山の地主と交渉を行い、土地の使用・開発許可をもらった。大きな商工人はいなかったため、同胞たちそれぞれが工夫してお金を集め、約1㎞の山道の木を切り倒して道路を拡張し、自力で通学路を作った。そうやって血と汗を流して、愛国の一心で建てられたのが東北初中だった」と明かした。
65年4月に開校した東北初中は、教員12人、児童・生徒132人でスタート。2万500坪の敷地に2階建て校舎1棟、寄宿舎2棟が設けられた。
入学した子どもたちは、ほとんどが日本学校からの編入生だった。
日本の小学校に通っていた金吉載さん(72、初級部1期生)は、「(日本学校には)朝鮮人である自分を名指しでからかう先生もいた。同じ朝鮮人と肩を並べて勉強できるのが幸せで、ウリハッキョは何物にも代え難い場所だった」と回想する。「大人たちがないお金をはたいて学校を建設してくれる姿を、子どもながらに見ていた。なおさら感謝しかなかった」(金さん)。
70年4月には高級部を併設(2009年に休校)。東北初中高へと発展し、敷地も3万3千坪まで拡大され、鉄筋4階建て校舎の並びに6階建て寄宿舎が新たに竣工された。

学校建設当時の同胞たち
学校建設当時、総聯中央の韓徳銖議長は「東北同胞社会を照らすセッピョル(明星)に、民族教育の理想を実現させるモデル校になりなさい」と期待の込もった激励を送ったという。この「セッピョル精神」は現在も継承されており、東北同胞たちの自負心を象徴する逸話として語り継がれている。
このようにして創立した東北初中は、東京や茨城の学校に通っていた学生たちが一斉に帰ってきたこともあり、ピーク時は1千人近くの在校生が通う大きな学校へと成長した。
復興の基盤に

学校が東北同胞たちの「復興の拠点」となった
創立以降、東北初中は同胞たちの希望の星としてその歴史を刻み続けてきたが、その過程で2度の震災被害を受けた。
78年6月12日、宮城県沖地震が発生。マグニチュード(M)7.4を観測した、仙台市を襲ったこの地震で住宅が被害を受けた同胞たちは学校に集まった。学校の敷地内でも比較的被害の少ない場所に食べ物を持ち寄り、ロウソクの火を頼りに避難生活を送った。
2011年3月11日、14時46分頃、最大震度7(M9.0)の巨大地震が宮城県牡鹿半島の東南東130km付近を震源地に発生。この東日本大震災では、地震と津波で死者19747人、行方不明者2556人の人的被害と、家屋100万棟以上が全壊・半壊・一部損壊する被害が生じた。

「대지는 흔들어도 웃으며 가자(大地は揺れても笑いながら行こう)」がスローガンとなった
総聯宮城県本部の全道鉉委員長(16期卒業)は「被害地域のようすは、爆弾が落ちたのかと思うほど衝撃的な光景だった」と当時を振り返る。
東北初中も甚大な被害を受けた。同胞たちの努力によって竣工された校舎と寄宿舎4棟が全壊・大規模半壊した。
震災後、3月24日には祖国から慰問金と慰問電が送られた。また、各地の同胞たちが人と物資を送り復興活動を支援した。

震災当時の写真
県内でも「同胞救援宮城緊急対策本部」を立ち上げた。震災当時の現場で、同胞ひいては地域住民の生活を力強く支えた急造の組織だ。この対策本部の拠点がまさに、東北初中だった。本部が置かれた学校の食堂が、県内同胞たちの生活と命をつなぐ「復興の基盤」となった。
「地震の被害を受けてやむを得ず、遠くに引っ越す同胞家庭も少なくなかった。それでも被災を乗り越えてやってこれたのはハッキョがあり、祖国の配慮と人・物的支援を送ってくれた各地の同胞、そして東北の底力があったからだ」(全道鉉委員長)
60周年の手応え

学校創立60周年記念行事で東北同胞たちが大合唱を披露した
一方で、学校関係者らは校舎の建て直しに際して専門家の知識を借り、2階建て新校舎の図面を引き、必要な書類も全て準備し申請した。震災復興法である「東日本大震災復興特別区域法」による支援で、学校建設費の2分の1を賄うことができる目途が立っていたのだ。
ところが、建設計画が大詰めに差し掛かった時点で、財務省と県総務部、復興庁関係者らと面談すると「朝鮮学校は整理回収機構(RCC)の担保がある」という理由で却下された。費用と労力を捻出した同胞たちの希望を打ち砕くように、新校舎建設計画は頓挫した。

学校敷地のジオラマ
しかし、東北同胞たちはこの不条理に屈することなく、児童・生徒たちのための学び舎を確保するために、1カ月後には寄宿舎を仮校舎として整備。各地からの支援も続き、その後約4年間で2度のリフォーム工事をするなど改築を進め、学校創立50周年を迎えた15年に、現校舎を含む校舎2棟と寄宿舎、講堂、食堂を再建させた。
校舎の再建から10年、現在は初・中級部に7人ずつの計14人の児童と生徒が通う。家族のように仲良く学校生活を送る子どもたちは、緑に恵まれた広い敷地でスクスクと育っている。

創立60周年記念事業を成果的に終えた東北同胞たち
創立60周年を迎えた今年、卒業生を中心に発足した記念事業実行委員会の活動により新しい通学バスが寄贈され歴史資料室が設置された。また青商会世代が主導したクラウドファンディングにより学校照明のLED化が実現し、女性同盟宮城県本部により講堂の冷房機設置が実行された。
学校関係者たちは、創立60周年記念事業が「力と人とお金を集める契機となった」と手応えを示す。次なる課題は、民族教育対策委員会など各種機関・団体の体制の見直しだ。
東北初中の玄唯哲校長は、この間の関係者たちによる愛校活動や支援に感謝の意を表する。児童・生徒たちを「オル(魂)・知・徳・体を兼ね備えた真のウリ学生」に育て上げる教育理念に基づき、「子どもたちが自ら学び、互いから学び合う学校を志向し、今後も教育の質向上に力を注ぎたい」と語った。
(朴忠信)
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