〈読書エッセー〉晴講雨読・恩師の著書『現代物理学の世界』と『理系の言葉』(下)/任正爀
2025年12月17日 10:15 寄稿筆者の大学院博士論文のテーマは「低エネルギー領域での反陽子消滅反応の理論的研究」で、その時にお世話になったのが『理系の言葉』の著者、土岐博先生である。自然界の物質にはすべて反物質が存在し、陽子と反陽子は接触すると消滅し別の粒子が生成される。当時、都立大素粒子実験研究室はスイスにある欧州共同原子核研究所(セルン)で反陽子消滅反応の共同実験に参加していた。陽子と反陽子はそれぞれクォーク・反クォークから形成されており、そのデータからクォークについての新しい知見を得ることが博士論文の課題である。

『理系の言葉』
ところが、なかなか思うように進まなかった。そんな時にミシガン州立大学から助教授に赴任されたのが土岐先生である。先生はすぐに筆者の研究の方向を示され、先生との共著で三編の論文を『理論物理学の進歩』(英文)に発表することができた。まずは、筆者が下書きするのだが、先生から返ってきた時には、まったく別の文章で苦笑いである。
余談であるが、ベストセラー小説で映画にもなった『ダ・ヴィビンチ・コード』の続編に『天使と悪魔』がある。科学と宗教の葛藤を描いているが、謎の人物が反陽子を爆発物として用いバチカンを脅迫する。セルンの責任者がその黒幕のように描かれており、セルンがよく許可したなと思ったのだが、宣伝になればと意に介さなかったそうである。
土岐先生はその後、阪大に移られ核物理研究センター長となられたが、2015年に大阪大学出版会から出版されたのが『理系の言葉』である。
12年に阪大ではグローバルな人材を育成するという目的で「超域イノベーション博士課程プログラム」を立ち上げた。目標は「グローバルにリーダーとして活躍できる人材育成を目指す」というもので、文系と理系の分断を克服することに重点を置いている。そこで、まず文系の学生が数学に対する苦手意識を克服するために、5回にわたって特別講義が行われた。それを担当されたのが土岐先生で、『理系の言葉』はその講義の内容を本にしたものである。半減期と微分方程式、微分は微小量の割り算で積分は微小量の足し算、微分方程式を解く、振動と三角関数、どこにでもある波の全5章で土岐先生の気さくな語り口と学生とのやり取りは臨場感に溢れ、まるで実際にその場にいるようである。
どうしてxやtが使われるの? どうしてギリシャ文字を使うの?といったごく素朴な疑問から、どうして微分方程式を教えたいの?という少し問題意識を持った質問、そしてどこまでやれば理系の言葉がわかるの?という本質を突いた質問などに、土岐先生は丁寧に答えられるのだが、なるほどと感心した。
副題に「微小量の魅力」とあるが、それを実感することができるのが「半減期」に関する記述である。
半減期とは原子核が放射能を放出しながら別の核へと崩壊する過程で、その量がちょうど最初の半分になるまでの時間経過である。元の量の半分、そのまた半分というように繰り返されるので、けっしてゼロにはならない。実はこれが放射能の怖さである。ウランのように半減期が45億年にもなるものもあるが、それはどのように求まるのか。それが微小量のマジックである。
微小時間の核の崩壊量は、その時間と元の核の量に比例する。そこで比例定数(崩壊定数)を用いて式で表すと微分方程式となる。この微分方程式はもっともポピュラーなもので、例えば人口の減少や増加も同じ形になる。それを解けば核の崩壊量は減少する指数関数で、半減期もすぐに分かる。つまり、微小時間から出発してすべての時間のことが分かるのである。
普通、微分方程式を解くためには積分を用いるのだが、指数関数は微分しても変わらず、その性質を利用して今の場合の微分方程式は簡単に解くことができる。
ただし、崩壊定数が未知数のままで、本には書かれてないが、微小ではなく一定の時間経過での減少量を実験によって確認する。ごく狭い範囲であるがそのグラフも指数関数であり崩壊定数が求まる。
ちなみに、ラジウムの発見を含む放射能研究で大きな業績を残したのが、有名なキュリー夫人である。ラジウムの半減期は1600年で、当然、キュリー夫人が確認したと思っていたのだが、それを明記したものがなかなか見つからない。ただし、核の崩壊量を表す単位にその名が付けられており、1キュリーはラジウム1グラムが1秒間に崩壊する個数である。
さて、本書の後半では微分方程式の例としてニュートンの運動方程式が提示される。具体的には落下運動とバネによる振動である。とくに、後者の運動方程式を解く際に虚数(2乗すればマイナス1となる数字)が導入され、さらにはサイン、コサインなどの三角関数へと話が繫がり、波動に至る。
文系の学生にとってはちょっとハードルが高くなるが、本文の質問や感想を見れば学生たちの意欲が伝わってくる。もしも、筆者が文系の学生に数学を教えるならば、この本の1回分の講義を3回に分けて計15回の講義内容とするだろう。もっとも、そんな機会はないが。

『解析力学』
『現代物理学の世界』『理系の言葉』は一般向けの図書であるが、久保先生には『解析力学』、土岐先生には『解いて分かって使える微分方程式』という専門書があり、筆者も講義の教科書・参考書として活用している。また、卒業論文の指導を行うなかで、先生方はこんなことを強調されていたのだなと思うことがしばしばあった。「学恩」とはこういうことをいうのだろう。
この間、朝大物理学科の教員として数多くの卒業生を送り出したが、ウリハッキョ教員や日本の大学・企業で研究活動を行う者をはじめ、みな同胞社会のなかで「理系の力」を発揮して頑張っている。そんな弟子たちがいることは、筆者の自慢であり誇りである。もっとも、かれかのじょらが筆者を恩師と思ってくれているのかは、心もとないが。
(朝大理工学部講師)