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〈特集・ウリハッキョの今〉京都第2初級/たくさんの手で支えられた同胞社会の中心

2025年10月07日 09:00 民族教育

現在の校舎(1965年落成)

京都市西部、嵐山の麓を流れる桂川のほとりに位置する京都朝鮮第2初級学校(京都市・梅津尻溝町)。同校は60年間、地域同胞に支えられ、激動の時代を共に歩みながら1302人の卒業生を輩出してきた。

創立までの道のり

1945年の祖国解放直後、京都市・右京区(現在の西京区を含む)には、三菱重工の軍需工場建設のために強制連行された朝鮮人をはじめ、昭和天皇即位大典に伴う京阪電鉄新京阪線(現:阪急京都線)の地下掘削工事(28年)、桂川の改修工事などの土木業のほか西陣織、京友禅の繊維業に従事した朝鮮人が集住していた。西陣織、京友禅は「日本伝統」とされるが、作業工程の中で最も大変な工程のほとんどを朝鮮人が請け負っていた。

朝連結成後に右京区内では、太秦、西院、梅津、西京極、桂に6つの朝連学院が開校。梅津の朝連太秦第四学院は、46年3月に国語講習所が発展するかたちで始まり、47年4月に認可を受けて正式に開設された。

49年には、学校閉鎖令によって市内の民族学校が次々に閉鎖される中、「京都朝鮮梅津学校」が11月21日に各種学校認可を獲得する。京都市内の同胞たちは東九条の木造アパートを購入し、京都第1朝鮮人小学校の校舎として利用することで民族教育の灯を守った。

55年に総聯が結成され、59年に帰国事業が始まったことで京都第1初級の児童数は増加の一途を辿り、64年には鉄筋3階、6教室の新校舎(南区・勧進橋町)が建てられた。

京都市西部の同胞たちの中からは、交通の便を解消するためにも右京区内に学校を建てるべきだとの声が高まっていた。

そして65年4月に、三菱重工軍需工場建設の飯場であった下津林の朝鮮人集落にプレハブ校舎を設け、京都第2初級第1回入学式が行われた。

下津林のプレハブ校舎(提供:京都第2初級)

同年10月16日には、梅津尻溝町の水田地帯に不釣り合いなほどの立派な鉄筋校舎が完工。盛大な落成式が執り行われた。その土地は教育会初代会長であり建設委員会委員長の金顕徳さんが友禅工場を売却した資金で用意された。同校は同年12月に「京都朝鮮初級学校梅津校舎」として認可され、69年11月に京都第2初級として認可を申請した。75年4月には中級部の併設に伴い4階建てに増築され、98年までに京都第2初中として歩みを刻んだ。

1965年10月16日、落成式の日を盛大に迎えた(提供:京都第2初級)

落成式のようす(提供:京都第2初級)

 “命より大切な学校”

75年から校長を12年間務めた李長根さん(90)は、中級部併設の背景について当時の高揚していた在日朝鮮人運動の状況を挙げながら「70年に舞鶴初中が出来たことが刺激になって中級部が併設されたと考えている。京都第2初級学区の同胞たちは力があったし、行動も早かった」と回想する。李さんは、校舎建設のスピードと中級部併設にみられるように、この地域の同胞たちは教育に対する熱い思いがあったと語った。

創立当初から教育会職員として携わった鄭源讃さん(85)は「当時は染色業に携わる同胞が多かった。友禅をするために冬の桂川に入るときには酒を呷っていたし、染色剤の毒によって多くの同胞が亡くなった」と振り返りながら、「そのような中でも京都第2初級の財政のために支援をたくさんしていた。そのような人は一人ではなく、たくさんいた」と話す。

鄭さんは開校初期からスクールバスの運転手も担った。大型のスクールバスは40~50人の児童で満車だったという。「冬になったら学校前の坂が凍ってバスが上がらないから朝早くから砂を撒いて竹ボウキで掃く作業が大変やったかな」(鄭さん)。

結婚を機に京都に移り住み、女性同盟京都府本部に務めた魚秀玉さん(71)は赴任当初、学校とオモニ会の橋渡し役をこなした。

魚さんは「京都第2初級は早い時期からオモニ会があり、授業参観後のバザーが恒例となっていた。特に印象深かったのは児童募集事業。オモニたちが『ウリトンムを増やそう』と自発的に臨んでいたし、あるオモニは家族一丸となって対象児童の家庭に働きかけて編入に繋げたほどだ」と懐かしむ。

 

苦境の克服へ

草創期世代の教育熱は後代たちに脈々と継がれていったが、2000年代に入るにつれ、校舎の老朽化が加速。主たる原因は京都府・市の補助金にあった。府と市の補助金には「直接児童に係るもの」「図書、備品の購入費」などの制限があり、タブレットやモニターなどは補助金で賄えるが、建物の修繕などは対象外だった。

竣工以来の状態が続いたトイレには使用できない便器が多く、理科室の天井裏には鳩が入り、巣の重みで一部の天井が崩落したことも。講堂の雨漏りも日常で、冷房に関しては、図書室と3年生の教室のみに設置されていた。

17年には教育会の活動が非正常化に陥り、さらに新型コロナウイルスの世界的な流行(20年~)が始まった。

それでも同胞たちが下を向くことはなかった。「難しい時だからこそ」と一層奮起し、洛西地域青商会とオモニ会、朝青支部(右京、西南)はエアコン設置のための資金を学校に寄付。20年6月21日、5つの教室にエアコンが設置された。この熱意は日本市民たちにも波及した。京都と滋賀にある朝鮮学校を支援する市民団体「朝鮮学校と民族教育の発展を目指す会・京滋」(こっぽんおり)が7月17日から始めたクラウドファンディングには目標額を超える支援金が募り、その一部が京都第2初級の空調整備費として寄付された。

その後、22年には教育会再建の前段階として財政委員会が発足した。財政委員会は学校運営で足りない分を解決するために策を練り、23年に正式な教育会として発展。財政克服の一環として大口中心だった一口運動を「ウォンスンイープロジェクト」と銘打って大衆化に取り組んだ。

プロジェクトの推進委員会委員長を担った教育会の金明志会長(52)は「財政を立て直すために、賛助者を増やすことと事業収益を生むこと、一口運動を始めるという3つの方法を決めた。その中で即効性があるのが一口運動だった」と話す。一口運動を始める前に金会長は学区内の組織・団体の会議の場すべてに足を運んで学校の窮状と支援を訴えた。そのかいあって、一口運動は開始早々に目標金額を達成した。

そして60周年を目前に控えた24年。60周年記念事業実行委員会が立ち上がり、事業の一環として人工芝化されたグラウンドの貸し出しによる事業収益も生まれ「(学校の財政が)なんとか回っている」(金会長)状態にまでこぎつけた。

 

同胞社会と共に

創立60周年記念事業実行委員会が発足した

60周年記念事業の理念は「同胞社会と共に歩んできた学校。学校60周年を地域全体で祝う。これからも地域社会と共に歩む」だ。記念事業では①記念式典をはじめとした行事の開催②連合同窓会を中心とした卒業生ネットワークの構築③歴史資料集の制作④教育環境設備の改修が行われ、そのための基金活動も展開された。

教育環境設備の改修では、創立以来そのままだったトイレの修理・改装、屋上防水工事と一部修繕、人工芝化が24年内に完了。24年から25年にかけて行われたLED照明への切替は洛西地域青商会が担当した。郭明広会長(41)によると、洛西地域青商会では現在、売店販売やチャリティーフットサルなどの財政活動を行っているという。また毎年、学校備品の寄贈を続け、年末には教職員への支援金給付も行ってきた。

一方、朝青右京、西南支部は合同で100万円を60周年基金に寄付しようと独自に運動を展開。夜会などでの屋台販売のほか、朝青員を対象にしたチャリティーイベントを企画し、一般向けの映画上映会も開催した。

60周年記念事業の中で大同窓会を担当する部署に関わっている朝青西南支部の鄭成浩委員長(29)は「この間、学校のために立ち上がる先輩たちの姿を見てきた。未来のベースとなる世代は朝青なので責任感がいっそう強まった」としながら「京都第2初級はこの地域同胞社会にとってかけがえのない場所だ。朝青員たちは、ここだけは何としても守っていかなければならないという思いを共にしている」と話す。

60年前に1世、2世の願いが形となって創立した京都第2初級。その思いは今も引き継がれている。

金栄周校長は「先代からのバトンを継いで教員、保護者、地域同胞たちが一丸となって京都第2初級を同胞社会の中心で輝く学校にし、次の世代にバトンを渡していきたい」と抱負を語った。

(高晟州)

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