【寄稿】担い合う傷み、そして希望~金剛山歌劇団沖縄公演を観覧して~/新垣誠
2025年03月16日 08:00 文化・歴史
沖縄公演フィナーレで「てぃんさぐぬ花」を披露する出演者たち(いずれも盧琴順撮影)
まだ20歳くらいの頃、私には想いを寄せる在日朝鮮人の女性がいた。朝鮮学校のない沖縄で育ち、在日の歴史について無知だった私に、かのじょは通った朝鮮学校のこと、育った京都東九条のマダン劇のこと、日本社会で散々苦労した両親のことについて教えてくれた。沖縄人の自意識を強く感じ始めていた私にとって、かのじょの民族に対する熱い想いは刺激的であり、恋愛感情を超えた次元でつながりを感じさせるものだった。
だからといって、関係が上手くいった訳ではなかった。お互いの理解を強く求めた所以だろう。しばしば自分の民族が、どれほど日本帝国主義の元、差別され抑圧されたかの言い合いになった。お互いが背負った歴史から湧き上がる怒りも手伝って、激しい口論にもなった。出会った当時、まだかのじょにとって私は「チョッパリ」(日本人に対する蔑称)であり、私にとってかのじょは「ナイチャー」(「内地」の人を指す蔑称)でしかなかったのだ。
歌とオッケチュムが得意なかのじょは、朝鮮学校で習った歌や踊りを披露してくれた。私は「アリラン」の朝鮮語歌詞を覚えて口ずさみ、その精神世界に触れた。次第にお互いの背負った民族の記憶と現状を理解し始めた私たちの間には、同志としての意識が芽生えていった。
しばらくしてお互いの道を歩み始め、音信不通になった。沖縄だけでなく在日の痛みを知った私はその後、留学先のアメリカでマイノリティーを研究テーマに選んだ。その頃のロサンゼルスには、軍事政権下の韓国から亡命するかのように留学してきた学生もおり、チュチェ思想の勉強会を開く学生との出会いもあった。今思えば、私の中の沖縄の痛みを他民族の痛みとつながるように導いてくれたのは、かのじょだった。
時は経ち、沖縄県の反ヘイトスピーチ条例の検討委員会で、出会ったのが白充弁護士だった。