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「玉砕」した朝鮮人軍属(下) 究明はいつ?“お父さんを返してくれ”    

2025年03月06日 08:00 歴史

タラワ島。太平洋に浮かぶ小さな島国・キリバス共和国の中心地で、赤道のすぐ北に位置するギルバート諸島北部の環礁だ。日本から5千㌔以上離れたこの場所で、太平洋戦争の末期であった1943年秋、戦地に駆り出された朝鮮人軍属、約1,400人が「玉砕」した。それから80年の時を経て、「帰らぬ犠牲者たち」を待つ遺族を取材した。

10歳で知った父の戦死

91年、タラワの地に建てられた朝鮮人犠牲者追悼碑(写真は金承鎬さん提供)

金承鎬さん(82)が、軍属としてタラワに動員された父親の戦死を知ったのは、10歳くらいの頃だっだ。

「祖父母と伯母・伯父が自分を育ててくれていたが、チェサは自分がやらなければならなかった。それで自覚しましたわ」。他方で、承鎬さんの母親は、帰国船の往来が始まった直後に朝鮮へ帰国。これには訳があった。

解放後、母方の家族は韓国へ行くのだが、その際、承鎬さんの母は、「幼子と若い母親の2人ではまともに暮らせない」との理由で、家族から「子(承鎬さん)を置いて一緒に帰ろうとの話を受けた」。

「君の写真をみて内地にいた時を思い出しています」などと書かれた父・在勲さんからのはがき

家族たちの勧めを断り、日本に残る決断をした承鎬さんの母だったが、厳しい生活は待ったなしだった。

「残っていても困るわけだ。ご飯もまともに食べられない。それでオモニは一人朝鮮へ行った。小さい時の話をすると涙が出てくるわな…」(承鎬さん)

その後、承鎬さんが38歳の年に祖国を訪問し再会するまで、「『オモニ』って一度も呼んだことがなかった」。

「人道的精神」での支給

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