〈私のノート 太平洋から東海へ 2〉日帝崩壊80年目にきざむ「戦勝国」の記憶/乗松聡子
2025年01月10日 09:31 寄稿2025年は、敗戦により大日本帝国が崩壊して80周年の節目になります。日本では「終戦80年」としてさまざまな行事が行われるようです。
私は1980年代、高校のときにカナダに留学し、2年間、5大陸70カ国から来ていた200人の学生と共に学びました。日本の侵略戦争について学校で教わることがなかった私は、留学するまでは、「広島・長崎の原爆被害を海外に伝えなければ」といった認識しかありませんでした。
しかし留学先で教えられたのは逆に自分のほうでした。のちに生涯の親友となったシンガポール人のアイルンからは、日本軍の占領中、日本兵が赤ん坊を銃剣で突き刺した話を聞きました。インドネシア人のレイラからは、強制労働を指す「ロームシャ」という言葉を聞いて驚きました。フィリピン人のイギーからは、友だちになってから「日本人にもいい人がいるんだ」と言われました。かれの父親は45年2月のマニラ市街戦時、日本兵の追っ手から命からがら生き延びたのです。
これらアジアの同胞たちから教えられた日本の戦争の実態は、当時17歳の私の歴史観を覆しました。
2019年8月、初めて朝鮮を訪問する機会を得ました。その旅での数え切れない学びや気づきの中でも、8月15日「祖国解放の日」に居合わせることができたのは貴重でした。平壌で移動中の車窓から、広場で着飾った女性たちが踊っているのが見えました。ガイドさんは、祖国解放の日を祝ってのことだと言いました。立ち寄ったスーパーでは、祝日セールをやっていました。日本によって植民地支配や占領された国々にとっては、天皇ヒロヒトが降伏をラジオで伝達した8月15日は、まさしく暗黒の時代からの解放を象徴する日です。
日本では8月15日を過ぎると戦争の歴史を忘れてしまう傾向にありますが、1945年9月2日の東京湾での戦艦ミズーリ号甲板における降伏文書調印式こそ重要です。ダグラス・マッカーサー連合軍最高司令官が見下ろす中、天皇と日本政府を代表し重光葵外務大臣が、大本営を代表し梅津美治郎参謀総長が降伏文書に署名しました。
なかでも重光葵が、杖をつきながらフラフラと甲板を歩く姿は、大日本帝国の無惨な最期を象徴しています。日本の満州侵攻(1931年9月)後に起きた、日本では「第一次上海事変」と呼ばれる32年1月28日以降の上海侵略戦争に「勝利」した祝いとして、天皇誕生日、いわゆる「天長節」を祝う祝賀会が上海の虹口公園で4月29日に開かれました。この催しで「君が代」を歌い始めたタイミングで、24歳の独立運動家尹奉吉が爆弾を投げ、日本の軍官民要人7人が死傷しました。その中にいた当時駐華公使の重光葵は、右足を失い、義足を使うようになりました。
この事件の13年後、日本降伏の場に、朝鮮代表は見える形ではいませんでした。しかし、天皇の代理として降伏文書に署名した重光の体には、尹奉吉の植民地支配に抗う闘いの痕跡が刻まれていました。これは、この場に朝鮮は戦勝国として確かに存在していたという証ではないかと思います。歴史は一巡したのです。
尹奉吉は捕えられ、軍法裁判で死刑宣告が下り、1932年12月19日に金沢の地で銃殺刑に処され、野田山墓地内に目印もなく埋められました。解放後、遺体は在日朝鮮人の努力で発掘され、本国に帰還し、国民葬が執り行われました。発掘された場所は今「尹奉吉義士暗葬地跡」として保存されています。私はその地を一昨年訪ね、説明版にあった「暗葬は植民地支配に起因した事件の証拠隠滅と歴史の抹殺」という言葉を胸に刻みました。現在この歴史が再び攻撃にさらされています。右派が、金沢市を相手どって撤去訴訟を起こしています。再びこの歴史が「暗葬」されないように守らなければいけません。
昨年3月、上海天長節爆弾事件の現場を訪ねました。虹口公園はいま「魯迅公園」となっており、その中に、尹奉吉の号であった「梅軒」の名を取った記念館があります。忠清南道礼山郡生まれの尹奉吉が3・1独立運動に触発され、学問を収めながら識字教育や農民啓蒙運動に従事した後、独立運動のため上海に渡り、大韓民国臨時政府の金九と出会い、決起に至るまでの道のりや、事件が世界中に報道されたことなどが中国語とハングルで展示されています。展示は「尹義士の死は、人類の良心と平和、正義の実現、祖国の独立を完成しようとする神聖な殉国だった」と結論しています。記念館の横に広がる梅園は、満開の時期だったこともあり、地元の人たちや観光客で賑わっていました。穏やかな陽光と梅の香りに包まれながら、91年前に思いを馳せました。
1945年の敗戦の光景から、2023年の上海の魯迅公園まで誘(いざな)いました。今年、「80周年」の戦争記憶は、やられた側からの視点を深める一年にしたいと思っています。
プロフィール
ジャーナリスト。東京・武蔵野市出身。高2,高3をカナダ・ビクトリア市の国際学校で学び、日本の侵略戦争の歴史を初めて知る。97年カナダに移住、05年「バンクーバー9条の会」の創立に加わり、06年「ピース・フィロソフィー・センター(peacephilosophy.com)」設立。英語誌「アジア太平洋ジャーナル」エディター。2人の子と、3匹の猫の母。著書に『沖縄は孤立していない』(金曜日、18年)など。19年朝鮮民主主義人民共和国を初訪問。世界の脱植民地化の動きと共にありたいと思っている。
(本連載は、反帝国主義、脱植民地主義の視座から日本や朝鮮半島をめぐる諸問題や国際情勢に切り込むエッセーです。金淑美記者が担当します)