〈続・朝鮮史を駆け抜けた女性たち 38〉「清征伐計画」にすべてをささげる-仁宣王后張氏
2012年03月30日 00:00 文化・歴史朝鮮の主権確立を夢見て
清の人質となり
丙子胡乱(※)の後、降伏を決意した朝鮮王朝第16代王仁祖は、1637年1月30日に漢江南岸の三田渡にある清軍本営に出向き、清の太祖ホンタイジが天子であることを跪いて認めるという屈辱的な城下の盟を余儀なくされた。張氏は、世子夫妻と夫鳳林大君(後の考宗)と共に清国の捕虜として9年間の虜囚生活を送ることになる。
その後、1年早く帰国した昭顯世子が政治的な陰謀により死亡したという報を受けすぐに夫鳳林大君と共に帰国、亡き昭顯世子の子を世継ぎとして擁立すべきだという臣下の意見を無視する形で仁祖は鳳林大君を世子の位に就け、張氏(1618~1674)は世子嬪となるのである。
兄と同じように清の人質として辛酸をなめた夫鳳林大君は、清の発達した文明を取り入れるべきだという兄昭顯世子の主張とは違い、三田渡の屈辱を雪ぎ、清を征伐することだけが至上最大の夢だと公言して憚らなくなる。「北伐計画」の始動であった。
夫の主張を支えて
即位した鳳林大君は孝宗となり、北伐のためには朝廷と民が共に倹約を旨とし国力増強に励むべきだと強調した。仁宣王后張氏とその一族も考宗の主張を積極的に支え、自ら倹約と質素を実践していった。
張氏はまず宮廷内の女性たちの風紀を引き締め、あいまいになっていた序列を正し、自らの権威を高めていった。亡き先王の側室がいまだ権勢を振るう現状を打破すべく、その側室の宮を女官長が起居する程の規模に縮小、大きくその権威が失墜していた孝宗の継母に当たる大妃の宮を、より大きく広い宮に移し孝宗と共に礼を尽くした。
彼女のこのような行動は王室の女主人が誰であるかを印象付け、宮廷内の女性たちの政治的な暗闘を未然に防ぎ、「北伐」に向けて朝廷が一致団結する求心力を形成する一助となった。
張氏は物事が合理的に運ぶように宮廷内にはびこる迷信を排し、費用のかかるあらゆるまじないやそのための儀式を禁じた。また、祭事用のものを除き、宮廷内での酒の醸造を禁じる禁酒令を発令、それに反発する老人たちには慰労のための宴を宮廷で催しその不満を鎮め、民心の獲得に成功した。
張氏の心配りはこれにとどまらず、有事に備え宮廷中の布団の色を従来の一色から二色にすることを提案した。布団の布を赤と青に変えさせたのは、当時の軍服が赤と青だったからである。王室がこのように率先して倹約に努めるとすべての貴族がこれに習い、当然国民もそうするだろうという発想だった。野史によると、それ以来朝鮮の伝統寝具の色は必ず二色で、それが本来の「伝統」だと言われるようになったという。
気丈な母として
張氏の内助にもかかわらず、孝宗は在位10年目にしてこの世を去った。北伐の準備が官民一体となって進められていた最中のことであった。
孝宗がこの世を去ると19歳の世子(後の顯宗)は、恐れ多くてとても玉座に座れないと言いだし位牌の前を離れようとしなかったという。どんな陰謀が渦巻いているとも知れない宮中で、長く玉座を空けておくことは到底できないことだった。張氏は泣き叫ぶ世子を大妃の前まで引きずっていき即位の教旨を下すことを要求、すぐに即位式を行うよう取り計らった。
また、張氏は孝宗の頭部に針を打った医師の死刑を強硬に要求したという。誤って針を血管に刺した結果孝宗を死に至らしめたからだった。医師の死刑に反対する臣下たちに彼女は言ったという。
「陛下を弑し奉った逆賊を生かしておけとは。そなたたちは父母もなくこの世に生まれたというのですか? さあ、答えてみなさい」
だが彼女の思いも虚しく医師は遠流となり、内政への発言力も徐々に弱まり、「北伐の夢」はついに叶うことはなく、1674年に57歳でこの世を去った。
(朴珣愛・朝鮮古典文学、伝統文化研究者)
丙子胡乱
1636~1637年に清が朝鮮に侵攻した戦いの朝鮮での呼び名