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〈記憶を歩く〉兵庫・在日朝鮮人1世/全在鴻さん(92、総聯加印支部顧問、加古川商工会顧問)

2024年07月26日 08:30 記憶を歩く

祖国解放から今年で79年、在日同胞コミュニティーの形成初期を知る多くの同胞たちがこの世を去った。それは同時に、祖国の分断に苦しみ、植民地宗主国・日本に暮らすという構造的抑圧のなかで生涯を終えた朝鮮人たちが数多く居ることを意味する。このような先代たちの記憶と営みは、明日を担う次世代が、自分たちのルーツについて考え、または向き合った際、欠かせない視点となるのではないか。そしてかれらの声を記録することは、同じルーツをもつわたしたちの役目ともいえるのではないか―。【連載】「記憶を歩く」では、今を生きる同胞たちの原点ともいえる在日朝鮮人1世たちの声から、「ウリ(私たち)」の歴史を紐解く。

ルーツを共にする人、広く束ねていけたら

昨年5月、兵庫県高砂市に住む在日朝鮮人1世、全在鴻さん(92、総聯加印支部・加古川商工会顧問)の自宅を訪ねた。3時間ほどだろうか、朝鮮半島で生まれた全さんが渡日して現在に至るまでの話をしたうえで、こう言った。

「他愛もない話ばっかりしてすいませんな」。1世たちの声に直接ふれる機会が極めて少ない今、全さんのいう「他愛もない話」は、すごく貴重で大事な歴史の一部であった。

一般的な光景

生まれ育った故郷、慶尚南道・統營のカルモク村は「前も後ろも山に囲まれた谷川」。全さんはそこで、祖父母や母、きょうだいたちと暮らした。故郷での生活を思うと「苦しいて涙が出てくるわ」と全さん。「こんな話をしてもだれも信用せえへん。なぜって、そういう生活は日本ではありえへんかったから」と言って、記憶を一つ、またひとつと辿っていくのだった。

「兄貴は仕事をしながら学費を稼いで日本の小学校に通った。いつも学校から帰ってきて水桶を担いで山へ行く。『学費が払えないから学費をくれ』とよく母親と喧嘩していた」

朝鮮で唯一学校に通った全さんの兄は、弟たちを思い、弁当を持って持って帰ってくることもあった。

「母は、麦飯でも、なるべく白いところを弁当箱にいれて持っていかせる。兄貴は兄貴で半分だけ食べて、あとの半分は弟たちに食べさせようと、弁当を残して家に帰ってくる。学校とは別だが、ある時、祖父が残したご飯と採ってきた山菜を『ヤンプン』(器)にいれて混ぜて食べたことがあった。野菜にご飯粒がひっついとるようなもんです。母や祖母は子どもたちに食べさせようとして自分らは食べない。これが朝鮮ではある意味一般的な光景だったと思います」

幼いため、植民地支配されていたことを実感することはなかったという全さん。しかし当時の大人たちの行動から、後にそれを実感した。

「駐在所があり、サーベルを下げて刀を持った巡査が回ってきたときは、子どもたちは決まって家の中に入れられた」。

そうした生活に変化が訪れたのは、全さんが5歳(以下、年齢はすべて数え年)の頃。日本への渡航証明が発行されたのを機に、先に渡っていた父を追い、母と弟たちと共に日本へ行くことになった。

甘いみかん水

全在鴻さん

全さんの父は、かつて村の書堂に通い、漢文も読める博識な人だった。そんな父が

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