故・高演義先生がのこしてくれたもの/金山川
2024年06月12日 08:57 寄稿朝鮮大学校外国語学部で学部長を務められた高演義先生の訃報にふれ、悼む気持ちを抱きながら、先生が書かれた『「在日」って誰のこと?』を中級部3年の生徒たちに教える日を迎えた。
私は外国語学部の学生時、高演義先生から国際政治を学んだ。今でも先生の姿を鮮明に覚えている。毎日かかさず学生たちの輪に入って食堂で食事をなさっていたこと。学生たちと話すのが大好きでいつでも笑顔で接してくれたこと。そんな思い出深い先生ではあるが、先生の書かれたこの『「在日」って誰のこと?』はお世辞にも教えやすい教材とは言えない。これからの生き方に悩む中3の生徒たちに、「在日朝鮮人」として生きていくのはどういうことかを考えさせる作品だ。「在日」という言葉から「在日朝鮮人」を客観的な視点で見つめなおす貴重な内容だが、あまりに深い内容のせいで、教師が上手く扱わないと、生徒たちにとって押しつけがましい授業になってしまう。
この本は現在、中3・日本語授業の教材なのだが、私はいままでこの授業をうまくできた試しがない。授業のスタートはアンケートをとることから始まる。「日本社会で朝鮮学校に通う自分」でよかったと思うこと、嫌だと思うことを生徒たちに書いてもらう。よかったことには「朝鮮語を学べること」「友だちができたこと」等があがる。その反面、「日本の学校よりお金がかかる」「朝鮮人か韓国人かわからなくなる」「朝鮮人だとバレたら殺されるんじゃないかとハラハラする」など嫌に思う点もあがってくる。中には進路への悩みから「全部が嫌だ」と書く生徒もいた。
私の中級部時代から変わらない「嫌な部分」に心が痛む。
私は初級部2年生のころ、日本の方に「なぜバスに乗ってこんなに遠い学校に通うの?」と尋ねられたことがある。その時「朝鮮人だから朝鮮学校に通います」とすんなり返すことができなかった。「怖い」という感情が急に全身を包み、身体が固まってしまったのだ。この体験は長い間、心のどこかにひっかかっていた。幼稚園の頃から「朝鮮人として堂々と!」をモットーとする民族教育を受けてきたのに、いざという時に言葉が出てこなかった。私は無意識にどこかでそんな自分を責め続けた。
しかし朝大に進学し高演義先生の授業を通して、幼い子どもが自分の民族を堂々と言えないこの社会がそもそも異常であることに気がついた。なぜ幼い小学生が出自に関して自責の念を持たなくてはならないのか。授業のレポートにもそのように書いたのを覚えている。この時、今まで誰にも言えなかった体験をやっと言語化できた。私のレポートを読まれた先生は当時「君の書いたことがピンポン玉みたいにずっと先生の心を動かしているよ」と声をかけてくださった。その時、ずっとどこかで締め付けられていた気持ちが解かれたような気がした。
また、高演義先生はこんな言葉も残してくださった。大学卒業間近だったある日の午後、眠気が充満している教室で、半分寝ぼけていた私たちに向かってふと「私は君たちだけに話しているんじゃないんだよ。君たちを通して、君たちがこれから出会う何千人に向かって授業をしているんだよ」とおっしゃった。一気に眠気が覚めた。この先生は人生をかけて教壇に立たれているのだとその時に初めて気がついた。
そして今では私が教壇に立っている。先生の書かれた文章を次は私が中級部生に伝えようとしている。作者紹介として、生徒たちに先生の人柄と、もう亡くなられたことを伝える。もしこの教室に先生がおられたら……。私の視界と先生の視界が重なる。
日本社会で朝鮮人として生きること。その生きにくさは多感な中学生に重くのしかかっている。授業料で進路選択を悩ませ狭い未来像から自分の存在を否定する。そんな生徒たちを見つめる高演義先生のまなざしは……。
「もしウリハッキョに通う君たちを見たら、先生はきっと一人残らず心の底から大好きになる」。きっとそうだという確信と共に伝えた。生徒たちの抱える悩みを理解し、変わらない社会に激しく怒りながらも、新しい世代を信じる。そんな高演義先生のまなざしは変わらずウリハッキョの教室を包んでいる。
(朝鮮学校教員)