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〈続・朝鮮史を駆け抜けた女性たち 51〉「節婦」の鑑―貞夫人達城徐氏

2013年05月08日 11:26 文化・歴史

17年間夫を偲んで

「烈女徐氏抱竹圖」に10億ウォン

2012年10月、テレビオークション番組において朝鮮王朝時代のある絵画に10億ウォンの値がついた。「烈女徐氏抱竹圖」である。版画ではなく彩色画で、「續三綱行実圖」や「東国輿地勝覧」などにもその異蹟が紹介されている貞夫人達城徐氏(15世紀)が白い竹にすがりついて泣いている様が描かれている。

「烈女」の事例が列挙された女性教育書には多くの挿絵があるが、配布が目的だったため大量に印刷できる版画が主であった。挿絵ではなく、単独の彩色画はとても珍しいという。

烈女徐氏抱竹圖 白竹拡大図

徐氏は嫁ぐ前から孝行で名高く、真冬の凍った池で病床の父のために鯉を捕り、その行為が真冬に池の前で泣いていると天から鯉が降ってきたとの伝説を生んだほどであった。

嫁した後1年も経たずに夫が病に倒れたが献身的に看病し、その姿が村人の心を打ち、脳裏に焼きついたと思われる。わずかに木に残った棗の実を夫の薬にと冬場雪をかき分けながら必死に採る姿が目撃され、いつしかこの「美しい逸話」が天から棗が降って来た、鯉が降って来たという「伝説」に変わったのかもしれない。

このような伝説は、彼女が貧しい嫁ぎ先の家族に対していかに誠実で、けなげで、献身的だったのかを物語る象徴であり、周囲の人々が彼女の「献身」を記憶した結果だともいえる。

ほどなく夫が亡くなると子を宿していたため後を追わず、その後17年間再婚せず墓の前で涙を流し、夫を偲んだという。するとある日、夫が植えた竹林から白い竹が生え、また新たな伝説を生むことになる。

烈女徐氏抱竹圖 全体像

王も驚く

白い竹の報に接した当時の世宗王は、徐氏の行いに感動し自ら詩を下賜、烈女碑を建てることを決める。

18世紀には徐氏の子孫が、王の肖像画も描いたことがある著名な画家華山館(ファサングァン)李命基(リ・ミョンギ)に徐氏の画を依頼、詩と共に後世に伝わることになる。「烈女徐氏抱竹圖」である。

「(略)徐氏の貞節は四徳を備え、竹の異跡は梧山に新たな旌閭門を立てる、葉は雪の刃 幹は白玉の如く、節々は皎然と疵ひとつ無し、(略)異蹟は宮中にも広まり画を描くに至り、燦爛と輝く大なる王の思し召し、虚ろな宇宙に明るい光差し、常に人の理は薄闇に頼らず」

(<略>徐氏貞節兼四德.竹亦梧山別立門.葉如雪刃竿如玉.節節皎然無玷痕.<略>九重名徹繪後素.燠爛宸章大裁言.照耀宇宙虛生白.萬古綱常顂不昏.)

画に加えられた詩には、1795年(正祖19)8月通訓大夫長水道察訪華山館李命基が描く、と書き添えてある。

この画は、夫に先立たれた女性の悲しみが白い竹という象徴を通して昇華され、時代の強要により凄惨で壮絶な最後を遂げる数多の「烈女」の事情とは異なるものを提示しているといえよう。挿絵の「烈女」たちはその多くが、嫁ぎ先の家族と夫のために犠牲になり、他者に殺されたり、虎に喰われたり、その血や肉さえ絞り、削ぎ落して与え結果死んでしまったり、あるいは貞節を守るため夫の後を追い自死したりと悲惨な事例が多いのだ。

「烈女」?

高麗時代までは「節婦」という言葉が一般的であったという。「節婦」とは夫の死後再婚しない女性を指し、この「節婦」に対応する言葉として「義夫」という言葉があった。妻亡き後再婚しない男性のことである。夫も妻も共に「守節」の義務があったわけである。

「烈女、烈婦」という言葉は高麗時代にはなく、朝鮮王朝時代になって定着した言葉だという。「烈女、烈婦」は亡き夫の後を追い自死したり、(夫のために)貞節を守って死んだり、婚家の犠牲になって死んだ女性を指す場合が多い。

女性に対する統制が国家によって強化されつつあった15世紀前後、既婚、未婚を問わず女性だけに「守節」を強要するため、「婦」だけではなく「女」の文字も加わったと専門家は指摘する。「烈婦」だけではなく「烈女」も、である。

もちろん当時のイデオロギーを現代的なジェンダーにだけ照らし合わせて論じるのは乱暴ではあるが、そもそも本来の儒教には「女性にだけ」に貞節を強要する「教え」は存在しないという。夫の死を17年もの間偲び、悲しんだ徐氏は、画の題名のように「烈女」というよりは、「節婦」と呼ぶにふさわしいのではないだろうか。

(朴珣愛・朝鮮古典文学、伝統文化研究者)

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