〈読書エッセー〉晴講雨読・小説『四千万歩の男』と『金正浩』(下)/任正爀
2024年02月28日 08:30 寄稿19世紀の地理学者・金正浩は、『大東輿地図』の製作者として広く知られている。『大東輿地図』は、近代以前の最も正確な朝鮮地図で、全国を南北に22に分けて東西を横に折り込むようにして作られている(よく知られている一枚の全図は、これをもとに作成したものである)。すべてをつなぐと朝鮮全土が見渡せるようになっているが、縦7m、幅3mにもなり、地図に反映された資料の収集もさることながら、版木を彫ることだけでも大変な労力を要したことは想像に難くない。江戸時代の最も正確な日本地図として知られる『大日本沿海輿地全図』を作成した伊能忠敬は16年の歳月、ざっと3万5千キロ、歩数にして約4千万歩を歩いたという。
伊能忠敬には「幕府御用」という看板があり供の者も多かったが、金正浩の場合は一人である。想像を絶する苦労があったに違いない。どこにそんなお金があったのだろうか?その間、彼の妻や子はどのように暮らしたのだろうか?地図を作ってどうするつもりだったのだろうか?実は金正浩の生涯は謎につつまれており、前述のような素朴な疑問に答えることは難しい。
史実として確認できることは、彼が『青丘図』、『大東輿地図』、『大東地誌』を残していること、その『青丘図』に実学者として知られる崔漢綺が序文を書いていること、また劉兼山『里郷見聞録』、李圭景『五洲衍文長箋散稿』などに金正浩についての断片的な記述があることくらいである。
そんな人物を主人公とした小説が、1990年に平壌の文芸出版社から出版された『金正浩』である。後にソウルでも出版されたが、作者であるカン・ハㇰテはハンギョレのインタビューで次のように答えている。
「金正浩を真の愛国者として描きたかったのだが、資料がなく困っていたところ、そうであれば歴史小説は歴史主義の原則と現代性の原則を具現すれば良いという洪起文博士の言葉に自信を得て構想を練りはじめた。彼の性格づけが簡単でなく、とくに紀行文のようにならないように何度も書き直した」
ちなみに、文中の洪起文は朝鮮を代表する言語学者で、彼の父は小説『林巨正』の作者である洪命熹、息子は日本でも翻訳出版された小説『黄真伊』の作者である洪錫中である。
小説は金正浩が1834年に『青丘図』を完成させた後、より実測に基づいた地図を作ることを国に上申するのだが受け容れられず、独力で地図を作らんがための道中からはじまる。途中に実学者・崔漢綺との友情、義賊とのやりとり、金剛山での放浪詩人・金笠との出会い、妻の死、山中での虎との格闘、白頭山の踏査と天地の水深の実測、彼の地図を横取りしようとする両班と商人の暗躍、名もなき人々との交流を交えて話は展開する。そして、26年にも及ぶ全国踏査を終え娘の助けを借りて、1861年に『大東輿地図』を完成させる。それを時の摂政・大院君に献じるのだが、国家の機密を流説するものとして罪に問われ、地図と版木は押収され、彼も刑場の露と消えるのである。
金正浩の生涯を克明に描いた興味深い小説であるが、あくまでもフィクションであることに留意したい。特に、広く知られる「金正浩獄死説」は確かめられたわけではない。
近代になって、一般大衆に金正浩を紹介したのは1925年10月8・9日付東亜日報の「古山子金正浩を懐す」という記事で、偉大な功績をあげたものの悲惨な最期を遂げたとある。これを基に獄死説を流布させたのが、朝鮮総督府編『朝鮮語読本』である。1934年に刊行された巻五「第四課金正皥(浩)」がそれで、その一部を抜粋すれば次の通りである。
「大院君はよく知られているように排外心が強い人であり、これを見て怒り、むやみに、このようなものを作り国の秘密を外国に漏洩するつもりか、として地図版を押収して、同時に正皥父娘を捕らえ牢屋に閉じ込めたが、父娘はその後しばらくして獄中の苦労に耐えきれなかったのか、痛嘆を胸に抱きながら前後してこの世を去った」
つまり日本帝国主義者は自分たちに敵対した大院君を悪役に仕立て、無慈悲な朝鮮王朝に取って代わった植民地支配の「正当性」を誇示しようとして金正浩を利用したのである。
ところが、1995年にソウルの中央博物館収蔵庫から『大東輿地図』版木11枚が発見され、「獄死説」に疑義が呈された。近年の研究によれば、金正浩は大院君時代の武官である申憲に地図の製作を依頼されたこと、そして彼が収集した備辺司と奎章閣に所蔵されている地図と旧家に残された地図を利用できたことなど、その製作過程の一端が明らかになった。しかし、金正浩の晩年については何もわかっておらず、伝説の余地は残されたままである。
金正浩は故国を愛するという意をこめて自身を「古山子」と号し、その地図の余白に目的を国防と人々の生活のためとに書いた。来るべき国際化の波を感じていたのであろう。それに対し権力闘争に明け暮れ、列強の侵入に対して有効な対策を立てることができなった偽政者には『大東輿地図』を使いこなせる能力はなく、むしろ、地図が敵の手に渡ることを恐れた。そして地図と版木は押収、金正浩も幽閉される。人々は罪人となった金正浩のことを口にするのもはばかるようになり、いくつか断片的なことのみが伝えられ風説と化した。正直、筆者はこのような人物像に魅力を感じているが、冷静に考えると金正浩の評価はあくまでも『大東輿地図』に対する科学史的評価によってなされるべきだろう。
それと関連する興味深い逸話がある。1898年に日本陸軍は測量技術者50~60人を動員し、1年間にわたり秘密裏に朝鮮全土の調査を行った。そして、「軍用秘図」を製作したのだが、彼らは『大東輿地図』を見てあっと驚いた。すでに、40年前に16万分の1の正確で精密な地図が出版されていたからである。さらに、それが金正浩という一個人が製作したという事実に衝撃を受けた。すなわち、金正浩はたった一人で、いち早く近代化を果たしたと自負していた日本帝国主義者の鼻をあかしたのである。このような事実に基づいて、悲劇のヒーローではなく、一大快挙を成しとげたヒーローとして、金正浩は語りつがれるべきではないだろうか。
(朝大理工学部講師)