【新連載】「消えない傷み~関東大震災朝鮮人虐殺100年・体験者の告白~」
2023年09月01日 09:00 歴史“一生忘れることはない憎しみ”
1923年9月1日に発生したマグニチュード7.9の大地震は東京、埼玉、神奈川など関東一円を襲い、人々を混乱に陥れた。同日から巷では「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「放火している」などの流言蜚語がまわりはじめる。当時、日本の政府、軍、警察が主体となり起こした「朝鮮人狩り」は、少なくとも6千600人以上の犠牲者を生んだとされているが、今日に至っても真相究明を拒む日本政府の姿勢は、犠牲者とその遺族、体験者らを苦しみに晒し続けている。
【新連載】「消えない傷み~関東大震災朝鮮人虐殺100年・体験者の告白~」では100年前の関東大震災時にあった朝鮮人虐殺を目撃および体験した同胞たちの証言を、朝鮮大学校編『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』(1963)から紹介していく。
金学文さん(愛知県守山市)
3日、『朝鮮人はみな殺す』ということが、『朝鮮人襲撃』のうわさとともに伝ってきました。わたしは、不可解でした。あのような大地震のさなかで、すべての人間が生きようと逃げまどうのに必死になっている時に、朝鮮人だけが、集団で襲撃するということは、どうしても考えられませんでした。(中略)10日ほど過ぎて、わたしたち朝鮮人労働者4人は、死体処理にかり出されました。めいめい腕章をつけさせられ前後を数名の日本人にとりかこまれて、江東の砂町方面にいきました。
錦糸堀には、相愛会の建物があって、その附近には『コジキ宿』といってまずしい労働者の宿が多く、土方をしていた全羅道出身の同胞が多く住んでいました。これらの人はほとんど殺されたようでした。私たちが処理した死体には、火にあって死んだ人やトビ口や刃物で殺された人がありましたが、両者ははっきり区別されます。虐殺された人は、身なりや体つきで同胞であることが直感的にわかるばかりでなく、傷をみれば誰にでもすぐ見分けがつきました。小さな子どもまで、殺されていました。あの頃のことを思うと今でも気が遠くなりそうです。
愼昌範さん(千葉県松戸市)
(荒川の堤防の上に避難した後)4日の朝、2時頃だったと思います。うとうとしていると『朝鮮人をつまみ出せ』『朝鮮人を殺せ』などの声が聞こえました。(中略)間もなく、向こうから武装した一団が寝ている避難民を、一人ひとり起こし、朝鮮人であるかどうかを確かめ始めました。私たち15人のほとんどが日本語を知りません。
そばに来れば、朝鮮人であることがすぐ判ってしまいます。武装した自警団は、朝鮮人を見つけるとその場で、日本刀をふり降し、またはトビ口で突き刺して虐殺しました。(中略)私は横にいる弟勲範と義兄(姉の夫)に合図し、鉄橋から無我夢中の思いでとびおりました。(中略)びしょぬれになって岸に上るやいなや一人の男が私めがけて日本刀をふりおろしました。刀をさけようとして私は左手を出して刀を受けました。そのため今見ればわかるようにこの左手の小指が切り飛んでしまったのです。
それと同時に私はその男に抱きつき日本刀を奪ってふりまわしました。私の憶えているのはここまでです。(中略)私の身体を一生涯不具にさせ、多くの同胞の生命を奪った日本帝国主義に対する憎しみは、一生忘れることはないでしょう。
全虎巌さん(奈良県大和郡山市)
2日の夜(7,8時頃)だったと思います。附近の人々があちこち集ってがやがや話していたので側へ行ってみると、炭鉱の朝鮮人労働者がダイナマイトを盗み集団で東京を襲撃してくるから、みな町を自衛しなければならないというようなことをいっていました。私は何故朝鮮人を殺すのだろうと不信に思いました。夜になって朝鮮人が多勢逃げていくというので、私は近くにある飯場に行ってみました。
飯場のすぐ側にハス畑があって、鉄道工事に従事していた同胞が20人ばかり居ました。行ってみると、