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〈どうほう食文化〉冷麺物語(5)-咸興出身の1世が生みの親

2013年10月11日 15:00 文化

盛岡冷麺の祖「元祖食道園」

元祖食道園の冷麺

初めて食べた人は少しためらう。太くてコシの強い麺。濃厚だが澄んだ牛骨スープに強烈なキムチの辛味。それまで食べたことのない食感と味わい。とっつきは悪いが一度味わうと病みつきになる。盛岡冷麺と称される冷麺は、ガンコな1世によってこの世に誕生した。

盛岡3大麺のひとつ

元祖食道園の初代、青木輝人さん(1990年ごろの写真)

北東北の岩手・盛岡地域の3大麺として、わんこそば、じゃじゃ麺をしのぐ人気の盛岡冷麺は、咸興出身の青木輝人さんによって開発された。父親が付けた名は楊龍哲、戦後に日本国籍をとった。

盛岡冷麺の生みの親、食道園の創業者である青木さんは1914年に咸興で生まれた。父はリンゴ農園の経営者で、青木さんは楊家の三男だった。冷麺が大好きで、幼いころから10銭を払って近くの小さな冷麺屋に通った。「唐辛子代を払いに行く」と笑われるほど真っ赤にして、コシの強い咸興冷麺を食べた。

23歳のとき留学のため東京に移住。日本に着くと戦禍が増したことから1943年に知人の住む盛岡に疎開、戦後の1949年に東京に戻った。留学の道はすぐ断念し、起業を志すが思い通りにならず、当時、数寄屋橋にあった「平壌冷麺・食道園」に就職し、冷麺作りの基礎を覚えた。しかし、経営者の都合で半年で店をたたむことになり、ふたたび盛岡へ。

1954年に盛岡市大通りで、数寄屋橋の店名を借り、「食道園」を創業した。朝鮮にいたころ記憶に鮮明だった平壌冷麺の知名度にあやかり、咸興冷麺ではなく「元祖平壌冷麺」の看板を掲げた。「冷麺が大好きだったから、これで勝負しようと思った」「平壌が大きな街だったから平壌冷麺の看板にした」と生前彼は、息子たちに話している。

開店当初の青木さんは、幼少時代に咸興で食べた冷麺を再現しようとしていた。麺は蕎麦粉と澱粉を主原料にしたもので、朝鮮半島に多い灰褐色。麺の太さはいまの盛岡冷麺と同じ2㎜。弾力があり、かみ切れないくらいの歯ごたえにこだわった。スープは、牛骨を何時間も煮込んで作った。具は、大根を細く切り、塩、酢で漬けこんだ膾のようなムーチェ(大根の菜)に、煮込んだ牛肉を添えた。

2代目の青木雅彦さん

冷麺でありながら、ムーチェという辛味を加えるのが特徴だ。青木さんは故郷の咸興ユッス冷麺とピビン麺の融合をイメージした。舌の上に残る記憶だけが頼りだった。盛岡で再現するにあたっては、甘さにまろやかさを加えるために、大根にキャベツを加える独自のキムチを考案した。

青木さんが生まれた1900年代の初めは、平壌冷麺は蕎麦粉の麺にトンチミスープで食するのが特徴であり、咸興冷麺は「スジより固い」といわれるじゃがいも澱粉の割合が高かった。食道園の開店当初、あまりの硬さに「ゴムを食わせる気か!」と激怒して帰った客もいるほどだった。それでも「日本人好みの味なんてわからなかったよ。自分がおいしいと思うからつくった」と意に介さなかった。

食道園のスタートは順風満帆とはいかなかった。

試行錯誤の末に地域に根付く

青木さんと妻の早苗さんは客の反応を見て、麺から蕎麦粉を抜き澱粉、小麦粉と重曹を入れて、現在のような透明感がある麺にした。それは青木さんが東京の食道園時代につくっていた冷麺に近いつくり方だった。若者を中心にいつの間にかその冷麺が評判になった。

食道園は最初、焼肉が売れ始め徐々に冷麺が浸透していった。

「日本人は朝鮮人と同じくらい麺好きな民族。わけても、わんこそば、じゃじゃ麺など麺好きな地域だからこそ、客の方が特殊な麺に近づいていったのではないか」と朝鮮食文化研究の第一人者、鄭大聲氏は分析する。

兄とともに2代目を継いだ青木雅彦さんは、「創業当時はとても暇で、カマドにくべる薪で兄とチャンバラごっこをしていました。それほど暇で貧乏だったことを覚えています。ラーメン1杯約40円の時代に1杯150円で売り出したのですから、強気だったと思います。改良が重ねられた麺は、咸興冷麺や平壌冷麺と違うオリジナルになりました」と開店当時を振り返る。

青木さんは盛岡冷麺の元祖といわれる度に、老舗として麺づくりの難しさを痛感している。

麺づくりは気が抜けない。麺、スープ、トッピングなど麺づくりの3要素が100点と思えることはめったにないという。「父と母が生み出した『元祖平壌冷麺』の看板に恥じないように、創業以来の味を守るため兄や妻と話し合って麺づくりに臨んでいます」と、初代にも負けない情熱を見せる。

食道園の冷麺ブームにつづけ!!

食道園の冷麺ブームは、焼肉店を営む在日同胞の注目を集めた。

1960年代後半、盛岡には焼肉店が30店舗以上あった。元祖平壌冷麺の暖簾を掲げ、日々人気が高まる食道園の業績は、異国で生きるために飲食業を興した同胞の希望となり、目標になった。

「食道園の冷麺のように地元で愛されるおいしい麺の開発を」と、市内の焼肉店が冷麺づくりに奔走した。三千里、明月館、大同苑、盛楼閣、ぴょんぴょん舎など同胞焼肉店が次々に独自の味を追求し、冷麺の看板を掲げていった。

(金才順・フードライター)

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